「会社が」に傍点]たのんだ。警察は会社のために犬馬の労をとったのだ。――そうでしょう? あの親父さんの本心では、どうして呉れる! と叫んで来たのだ」
 それぎり黙りこみ、新聞を読み出した。が、自分の心は深い一点に凝って、暫く動かなかった。
 おとといのことだ。朝からいかにも陰気な小雨で、留置場の裡はしめっぽく、よごれたゴザが足の裏へベタベタ吸いつくようだった。雨の日、留置場は濡れた鶏小舎そっくりの感じである。シーンとなっていると、三時頃、呼び出された。矢張りべとつくアンペラ草履で二階へ行くと、高等室とは反対の、畳敷の室へ入れられ、見ると、母親が窓近くの壁にもたれて居心地わるげに坐っている。オリーヴ色の雨合羽が袖だたみにして前においてある。自分を引出して来たスパイは、
「……じゃあ」
と云って、珍らしくさし向いにして室の外へ出た。室の外と云っても、ドアをあけ放したすぐ外のところに立っているのである。自分は坐りながら、
「どうしたの、お天気がわるいのに……」
と云った。母親は、一寸だまっていたが、
「――こんなお天気にとても私は家にじっとしてはいられないよ」
 ――何年も母親から感じたことのない、そして、そんな優しさのあることは忘れていた暖みがその時湯気のように自分をつつんだ。
「ありがとう、すまなかったわね」
「親なんてばか[#「ばか」に傍点]なものさ」
「いいわよ、いいわよ。今のような時勢にはいろいろのことがあるさ」
 自分は母親の手をとり、指環がまがっているのを見て、それを直してやった。二階の窓からは雨にぬれた銀杏樹の並木、いろんな傘をさした人の往来、前の電気屋のショーウィンドに円いオレンジ色のシェードが飾ってあるの等、活々と一種の物珍らしい美しさで暗い、臭いところから出て来た目に映った。
 やがて、母親が室の外をのぞくようにして、
「さっきの人、どこにいるかい」
と小声で訊いた。
「そこにいるわ」
 単衣《ひとえ》羽織を着た帯の前のところで母親はそっと手の先だけを動かし、おいでおいでをした。自分は、膝頭で、そばへよって行きながら、はじめ体が熱くなり、段々顔まで赤くなるのを感じた。到頭母は、誰かの、待ちに待った外からのことづけを持って、わざわざこんな日に面会に来てくれたのか。――自分はぴったり母によりそい、羽織の衿を直すようにしながら囁いた。
「何なの?」
「お前」
 私の顔を見上げ、
「どウして」
と体を前へ動かすほど力を入れ、
「云ってしまわないんだよ!」
 びっくりして、自分は腰をおとし母親の白い顔を正面から見直した。
「何をさ」
「何って!」
 さもじれったそうに眉をしかめた。
「もう二人も白状しちまったそうじゃないか。お前が出したものは出したと云って、あやまりさえすればすぐ帰すって、警視庁の人が云っているんじゃないか!」
 顔は熱いまんま、腹の底から顫えが起って来た。
「そんなことを云いに来たの?」
「そんな恐ろしい顔をして……マァ考えて御覧……」
「…………」
 愈々声をひそめ、力をこめ、
「その方がお身のためだって、むこうから云っているんじゃないか! それをお前……」
 動物的な憎悪が両手の平までこみあげて来て自分はおろおろしているような、卑屈を確信と感違いしているような母親の顔から眼をはなすことが出来なくなった。
 自分は、一言一言で母親を木偶《でく》につかっている権力の喉を締めるように、
「私は、金なんぞ、だ、し、て、はいない」
と云った。
「わかったこと? 私は、だ、し、てはいないのよ」
 母親のそばへずっとよって、耳元で云った。
「おっかさんが今何の役をさせられているか分る? ス・パ・イ・よ。むこうは、わけの分らない、只うまく[#「うまく」に傍点]立廻ろうとしている親をそういう風に利用しているのよ。しっかりして頂戴、たのむから……」
 ドアのところで、咳払いがする。自分は母のそばをはなれながら、猶、じっと目を放さず、
「わかった?」
 母親は、むっとした顔でそっぽを向き瞬《まばた》きを繁くしている。――
 やがて袖をさぐってハンケチを出しながら泣き出した。しかしそれは、自分がわるかったとさとって流している涙でないことは、犇《ひし》と私に分るのであった。
 母親が帰ってゆくと、
「暫くこっちで休んで」
と、主任が呼んだ。
「どうでした?」
「ふむ」
「……ふむ、じゃ分らないじゃないですか」
「…………」
 不図見ると、検閲の机の上に「プロレタリア文学」六月号が一冊のっている。自分はあつい掌でそれをとり頁をくった。第五回大会の写真がある。うすい写真の中でも、同志江口が白いカラーをはっきりと、いつもの少し体をねじったような姿勢で壇上に立っているところがある。押し合う会集。「暴圧の意義及びそれに対する逆襲を我々はいかに組織すべきか」という巻頭論文がのっている。貪るように読んだ。同志蔵原をはじめ、多くの同志たちの不撓《ふとう》の闘争が語られてある。その中に自分の名も加わっている。読んでいるうちに覚えず涙がこぼれそうになった。このような涙を見せてやるのは勿体ない。――自分は段々椅子の上で体の向きをかえ、主任の方へすっかり背中を向けてしまった。

 信じられないようなことが事実であった。或る男が没落して、私が作家同盟の或る同志に個人的に貸した金のことに言及した。金、金と云われるのはそのことなのであった。

 二日ばかりかかって書類に一段落つくと、中川は、
「ところで、愈々将来の決心だが……」
と、睨むように私を眺め、万年筆をおいて煙草に火をつけた。
「帰れるか、帰れないかがきまるところだから、よく考えて答えたまえ!」
 夜七時頃で、当直が一人むこうの卓子で何か書いているきり、穢い静かな高等室の内である。
 一切非合法活動をしないと誓えるか、と云った。
「――そんな約束は出来ない」
 自分は、ねんばりづよく押しかえした。
「合法、非合法の境は、そっちの勝手でどうにでもずらすんだから、私が知ったことではない」
 マルクス主義作家として、飽くまでも合理的な文化建設のために働くことを任務とすると、自分は口述した。
「ふむ……」
 煙草をふかしながら、自分の書いた文字を中川はやや暫く眺めていたが、
「――ここは変えられないかね」
 灰をおとした煙草の先で示した。マルクス主義作家として、という文句のところである。
「変えない」
「――いいかね?」
「いけないことがあるんですか?」
 薄い唇を曲げ、
「マルクス主義作家ということは窮極において党員作家ということだよ」
「――私は、字のとおりマルクス主義作家と云っているのです」
 中川は暫く沈黙していたが、前歯の間に煙草を銜《くわ》え、煙をよけるように眼を細めて両手でケイ紙を揃えながら、
「これで帰れるかどうか知らんよ。だがマア君がこれでいいと云うならいいにして置こう。――僕にとっちゃどっちだって同じこった。そうだろう? ハッハハ」
 黒い舌の見えるような笑いかたをした。

 それきり中川は現れず、本当に自分は帰れるのか帰れないのか分らぬ。留置場の時計が永い午後を這うように動いているのなどを眺めていると、焦燥に似た感じが不意に全身をとらえた。これは全然新しい経験なのであった。自分はこのような焦燥を感じさせるところにも、計画的な敵のかけひきを理解した。
 六月二十日、自分は一枚の新聞を手にとり思わず、
「ああ!」
と歓びの声をあげた。顔がパッと赤くなった。十九日の日本プロレタリア文化連盟拡大中央協議会は、開会、即時解散をくったが、文化団体として前例のない勇敢なデモが敢行され、新聞はトップ四段抜きでその報道をのせ、築地小劇場の会場が混乱に陥った瞬間の写真が掲載されている。警視庁特高係山口、明大生の頭を割る。山口が太いステッキを振って椅子の上から荒れ狂い、何にもしない明大生を、わきにいたばっかりに殴りつけ昏倒させたという記事が出ている。大衆の圧力と、彼等の狼狽が、新聞の大きい活字と活字の間から湧きたって感じられる。
「――到頭最後の悲鳴をあげたね」
 主任が、ジロジロ私の上気し、輝いている顔を偸見《ぬすみみ》ながら云った。
「…………」
 自分は黙ったまま、飽かずその記事をよむのであった。

 六月二十八日。自分は八十二日間の検束から自由をとり戻した。



底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
初出:「中央公論」
   1951(昭和26)年3月号
※執筆は1933(昭和8)年
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年5月4日作成
2008年12月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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