ソヴェトにしたのだから……」
「ふむ……」
仄めかされた数言は次のような内容に大体釈訳されるのであった。即ち赤松は軍部の指令によって或る革命的カンパニアの日にでも、暴動を挑発する。==総同盟系の反革命的労働者を煽動して、一定の公共物を襲撃させる。すると、直ちにそれを共産党の蜂起とデマり、鎮圧の名目で軍隊を繰り出し、市街戦で革命的労働者、前衛を虐殺し、それをきっかけに戒厳令をも布く。そのような計画が予定のうちにあるキッカケの為に、赤松は総同盟の労働者を最も値よく売ろうとしている、と云うことなのである。
留置場に戻り、檻の内を歩きながら、自分は深い複雑な考えに捕われ、時の経つのを忘れた。
「働く婦人」などは、もっともっと目に見るように支配階級のこういう陰謀を摘発し、赤松らの憎むべき役割の撃破についてアジプロしなければならぬ。そう思うのであった。
梅雨期の前でよく雨が降った。中川は十日に一度ぐらいの割で、或る時はゴム長をはいてやって来た。同じ金の問題である。
「君は、さすがに女だよ。もちっと目先をきかして、善処したらいいじゃないか。心証がわるくなるばっかりで、君の損だよ」
目さきをきかすにも、事実ないことでは仕方ない。
自分を椅子にかけさせて置き、
「一寸すみませんが田無を呼び出して下さい」
と、特高に目の前で電話をつながせた。
「ア、もしもし中川です。明日の朝早く細田民樹をひっぱっておいてくれませんか。え、そうです。細田は二人いるが、民樹の方です。ついでに家をガサっておいて下さい。――じゃ、お願いします」
そんな命令をわざわざきかせたりした。
「――これも薯《いも》づるの一つだ」
そして、嘲弄するように、
「マ、そうやってがんばって見るさ」
ポケットから赤い小さいケースに入った仁丹を出して噛みながら云った。
「ブルジョア法律は、認定で送れるんだからね、謂わば君が承認するしないは問題じゃないんだ」
「そう云うのなら仕方がない」
自分は云うのであった。
「事実がないからないと云って、それが通用しないのなら、出鱈目を云っている人間と突合わして貰えるところまで押してゆくしか仕様がない」
こういう威嚇ばかりでなく、警察では例えば拘留がきまると親族に通知して貰えるキマリである。が、留置場で見ていると、大抵の看守は、いきなり、
「通知人ありか、なしか」
と訊いた。または、
「ここへ通知人ナシと書け」
という。不馴れのものは、自分たちの権利のつかいどころを知らない。云われるままになるしか方策がない。今の場合、自分は、認定で送れるのだと云われても、ただ常識で、そんな不合理なことがあるか! と撥《は》ねかえすばかりなのであった。
「大体、文化団体の連中は、ものがわかるようで分らないね。佐野学なんかは流石《さすが》にしっかりしたもんだ。もっともっと大勢の人間がぶち込まれなけりゃ駄目だと云ってるよ。そうしなければ日本の共産党は強くならないと云っている」
大衆化のことを、彼等らしい歪めかたで逆宣伝しているのである。
押問答の果、中川は実に毒を含んでニヤニヤしつつ云うのであった。
「まア静かに考えておき給え。君がここでそうやって一人でがんばって見たところで、外の同志達はどうせ君ががんばろうなんぞとは思ってやしないんだから。――無駄骨だヨ」
その頃、前科五犯という女賊が入っていて、自分は栃木刑務所、市ケ谷刑務所の内の有様をいろいろ訊いた。栃木の前、その女は市ケ谷に雑役をやらされていて、同志丹野せつその他の前衛婦人を知っているのであった。
市ケ谷の刑事既決女囚は、昔、風呂に入って体を洗うのに、ソーダのとかし水を使わされていた。それが洗濯石鹸[#「洗濯石鹸」に傍点]になった。同志丹野その他の前衛が入れられてから、そういう人々は、人間の体を洗うに洗濯[#「洗濯」に傍点]石鹸という法があるかと、自分達の使う石鹸を風呂場に残しておいて皆に使わして呉れ、と要求して、今では花王石鹸が入っているのだそうだ。
そういう話をし、その女は、
「ああいう人達は、とても確《しっか》りしたもんですからね」
と、自分の目撃を誇る調子で云った。
「ああいう人達が沢山入って来るようになってっから、私共の方だって全体にどの位よかったかしれないんですよ。女監守が、無茶に私共をいじめでもすりゃ、ひとのことだって黙ってやしないからね。文句を云うし、どんな偉い人だって目の下で、どこまででも持ち出して行くから、ビクビクものなんですよ」
或る時女監守が女囚の一人を理由なく殴ったということから、独房の前衛婦人達が結束して抗議をはじめ、大騒ぎになった。男の方からやって来て、抑圧したのだそうだが、
「ふふふふ、その時ね、一人の女監守があわをくって、卒倒しちまったりしたんですよ」
度々の獄中生活で、その女は二十八という年よりずっと干からびた体であった。骨だった肩にちっとも似合わない白っぽいお召を着て、しみじみ自分の手の甲をさすりながら、
「正直なところ、ああいうところへ入れられると赤く[#「赤く」に傍点]ならずにいられやしませんね。やり方がひどいからね、人間扱いじゃないもの。……」
女監守は自分のものを干す物干竿と女囚のとをやかましく別にしていて、うっかり間違えて女監守の竿にかけでもすると、
「オイ、オイ! 誰だい? きたならしいじゃないか! 誰が間違えたんだ!」
と、すぐはずさせ、その物干竿に石鹸をつけてもういいという迄洗わせる。
「そいでいて、自分達がコソコソすることって云えば、平気でお香物やおかず[#「おかず」に傍点]の上前をはねてるじゃありませんか! きたならしくないのかねエ」
刑務所の食糧は糖分が不足しているから、ウズラ豆の煮たのは皆がよろこぶ。ウズラ豆の日だと女監守は各房へ配給する前、一人ずつの皿からへつって自分のところへくすねて置き、休憩時間のお茶うけ[#「お茶うけ」に傍点]にするのだそうであった。香の物は四切れのところを、三切れずつにしてこれも、お茶うけにする。――
「そういうことを見せられちゃね……だから、女監守が休憩の時、よく私共に、共産党の女のひとがどの房とどの房で話しするか見張っていろって云うけれど、誰もそんなこと真面目にきくものはありませんわ。お忠義ぶる女は却っていじめられますよ」
小声で話していると、いきなり、
「なに講義してる」
いつの間にか跫音を忍ばせて、岨《そわ》にテロルを加えた赤ら顔の水兵上りの看守が金網に胸をおっつけてこっちを覗いている。
「…………」
「駄目だゾ」
「…………」
この看守だけは、どんな時でも私に歌をうたわせなかった。迚《とて》も聴えまいと思う鼻うたでも、きっと意地わるくききつけ、「オイ」と低い声で唸って顎をしゃくうのであった。
あっちへ行ったかと思うと、第二房で、
「……ねえ、そうじらすもんじゃないですよ。……たち[#「たち」に傍点]が悪いや!」
と、如何にも焦々する気持を制した調子で云っている声がする。この看守は煙草が吸いたくてたまらないでいる留置人の鼻先で、指もくぐらない細かい金網のこっち側へわざとバットを転しておいたり、今にも喫わしてくれそうに、ケースの上でトントンとやって見せたりして、猿をからかうように留置人をからかうのであった。そのために、吸いもせずにくたくた古くなったバットを二本、いつもニッケル・ケースに入れてもっているのであった。
「チッ! いけすかない!」
空巣の加担をし※[#「貝+藏」、429−14]品を質屋へ持って行って入れられている五十婆さんが舌うちした。
「あたし、世の中にこういうとこの人《しと》たちぐらいいやな男ってないわ」
横坐りをしている若い女給が伊達巻をしめ直しながら溜息をついた。
「刑事なんぞここじゃ横柄な顔してるけど、お店へああいう人《しと》が来ると、まったく泣けるわ。そりゃねちねちしてしつっこいのよ。つんつんすりゃ仇されるしさ、うっかりサービスすりゃエロだってひっかけるしさ。――お店だってよくかり倒されんのヨ」
引っぱられて来るのは女給が一番多く、そのほかでも、話を聞いて見ると八割までは、媒合、売淫、堕胎など、資本主義社会における女の特殊な不幸を反映しているのであった。
呼び出されて、いつも通り二階へ行くものと思っていたら昇り口を通りすぎ、主任が先へ歩きながら、
「おっかさんが見えてるんだが……」
立ち止って、グルリと平手で五分苅頭を撫で、
「――会いますか」
厭《いと》わしさと期待の混り合った感情が自分を包んだ。
「会いましょう」
コンクリートの渡りを越え、警察の表建物に入ると、制服巡査が並んで、市民の為の[#「市民の為の」に傍点]事務をとっている。その横に署長室がある。
ドアをあけると、署長の大テーブルのこっち側の椅子に母親が腰かけている。ドアが開くと同時に白い萎《しぼ》んだ顔を入ってゆく自分に向け、歩くから、椅子にかけるまで眼もはなさず追って、しかし、椅子にかけている体は崩さず、
「……どうしたえ、百合ちゃん……本当にまァ……」
主任は、爪先で歩くようにして室の角にかけ、此方を見ている。署長は、大テーブルのあっち側で、両手をズボンのポケットに突こみ、廻転椅子の上に反っている。
「どうですね」
「ええ。……体はどうなの?」
自分は真直母親と口をききはじめた。こういう場面で母娘の対面は実に重荷であった。我々母親は十何年来別々に暮して来ているので、警察で会っても二つの生活の対立の感じは、消すことが出来ないのであった。
「どうやらこうやってはいるけれどもね」
まじまじ自分を眺め母親は、
「本当に、これじゃあどっちが余計苦労しているのか分らないようだよ、お前はいつ会っても平気そうに笑っているけれど……」
「だって、泣くわけもないもの」
自分は重く、声高く笑い、自分には興味のない犬だの、小さい妹の稽古だののことに話頭を転じる。母親がいらぬ心痛から妙な計画でも思いついては困ると、自分は留置場の内のことについては、何一つ云わないようにしているのであった。
話しながら自分はちょいちょい、母親の手提袋を膝にのせて控えている妹の顔に視線をやった。母親との話はすぐとぎれた。すると妹が、
「――やせたわね」
と眼に力を入れて云って、可愛い生毛の生えた口許にぎごちないような微笑を泛《うか》べた。
「そうオ?」
頬ぺたを押えながら、自分はゆっくりこちらの気持を打ちこむように云った。
「どう? みんな変りなくやっている?――この頃は私の知りもしないこと云え云えで閉口さ」
「そうなの!」
びっくりしたように目を大きくする。押しかぶせて、
「どう? 何か変ったことないの?」
意味ありげな顔つきをしている癖に、こういう場面に全く馴れない妹は何も云えず、母親は母親で、やはり気持のはけ口を求め、神経的に真白い足袋の爪先をせわしく動かしている。――心配をしているのは真実なのだが、彼等は、はっきり私の側に立って、たまの機会はどしどし積極的に利用するという確り引立った気分で腰を据えていないから、手も足も出ない有様なのであった。
母親は、持ち前の性質から、矢張り、そんな犬の仔の話などしておれない気持になり、段々焦立って、遂には議論を私に向ってふきかけ始めるのであった。
「私はね、それが正しいことだとさえ分れば、よろこんでお前の踏台になりますよ。ああ、命なんぞ、どうせ百年生きるものじゃないから、未練はない。だが、どうも私には一点わからないことがある。――国体というものを一体お前はどう思っているのかい?」
署長は、廻転椅子の上で身じろぎをし、主任は、隅で胡麻塩髯のチビチビ生えた口許を動かす。
自分は、
「……相変らずね!」
と、全場面に対して湧き起る顫えるような憎悪を抑制して苦々しく笑い、
「そういう議論を、こんなところではじめたってお互の為にろくなことはないんだからね。やめましょう」
母親は、不服げに、十分意味はさとらず、然しぼんやりそれが何か不利を招くと直覚
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