連盟が参加した三・一五記念の汎太平洋プロレタリア文化挨拶週間の催しの一つとして「働く婦人の夕べ」をやった時などは、開会一分で、中止、解散、であった。自分がやっと「今日ここに集っていらっしゃる方を見ても若い方が多い。お婆さんは」と云いかけたら、中止! であった。余興は講演とは別に許可をうけ、どれも皆数度公演ずみのものだのに「公安を害す」と禁止した。
 現に地方などでは、「働く婦人」を一冊とるだけにさえうるさく妨害しているのであった。
「……指導は誰がやっているんですか」
 やがて清水が煙草に火をつけて訊いた。
「誰が指導するということはない、編輯会議でするんです」
「しかし、指導しないでこんなに高度になって来るわけはない。ね、――例えばこれを御覧なさい」
 清水は「働く婦人は今度の戦争をどう見るか?」という特別投書欄の鈴木桂子の文章の上を叩いた。
「え? こりゃ一目見たって素人が書いたものじゃない、誰です」
「鈴木桂子と書いてあるじゃありませんか」
「鈴木っていうのは何者だ」
「知りません。投書だもの……」
 自分は、
「一寸考えても御覧なさい」
と云った。
「あなたがたは、高度になったとか女のようではないとか云うが、実際今の世の中で、女は男なみ以上働かされている。それでとる金は半分です。キリキリ女をしぼっている。それでしっかりして来なければその方がどうかしている。あなた方だって、自分の体が満足なら細君を所謂女らしく封じて置けるだろうが一朝永患いをして金がないとなったら、警視庁が五年十年と養ってはくれないでしょう。細君がやっぱり何とか稼がなければならない。そうなったとき時間が永すぎるとか、賃銀がやすすぎるとか云った時、あなた方は決して何だ女らしくない! と細君をどやしはしないのだ」
「……ふむ。……だが、これはどういうことになるかね」
 指で示すのを見ると、やはり同じ投書欄で、愛子という人の投書に、何事も〔三字伏字〕のお為だ云々というところの三字がある。
「…………」
「いいですか? 一ヵ所じゃないですよ。こっちにもある。……こオっと……これ、これはどう云うんです」
 敏子という名で、戦争反対をハッキリのべている文章なのだが、ここでは〔三字伏字〕は御自分の赤子《せきし》が殺されるのを云々という文句がある。自分は、どっちも読み直し、文章そのものに何の咎めるべきところはないと云った。
「――しかしですね」
 清水はぐっとのり出した。
「その文章そのものはそうかもしれないが、前後との関係で、いけないんだ。……大体[#「大体」に傍点]、戦争の記事を扱うのがいけない[#「戦争の記事を扱うのがいけない」に傍点]」
「それは妙だ」自分は云った。「キングを御覧なさい。婦人倶楽部を御覧なさい。子役までつかって戦争の記事だらけです」
「冗、冗談云っちゃいけませんよ」
 不自然にカラカラと清水は笑った。
「扱いようの問題じゃないか。……つまりこういう風に扱うのはいけないと云うわけなんです」
「だが、戦争をしたって不景気が直らず、却ってわるいというのはお互に知りぬいている事実ですよ。従って、戦争が自分たちのためにされているものでないことがわかるようになるのも実際のなりゆきで、そう思うな、ということは出来ない。いいわるいより、先決問題は現実がどうであるかというところにあるわけでしょう」
 清水は、半面|攣《つ》れたような四角い顔をハンケチで拭いて、それをズボンのポケットにしまいながら、声を落して云った。
「よしんば実際はそうであろうとも、この世の中には現実のままで人前には出せないことがあるもんです。そうでしょう? え? たとえば、夫婦関係は現実にはわかり切ったものであるが、それを人前で行う者はない。え? そうでしょう? ありのまま云っては都合のわるい[#「ありのまま云っては都合のわるい」に傍点]ことがある。――ね? そこのことです」
「誰に[#「誰に」に傍点]都合がわるいんでしょう?」
「…………」
 清水は、ふと気を換えるように、
「この詩を知っていますか」
と、イガグリ頭を仰向けるように眼を瞑《つぶ》り、節をつけて何かの漢詩を吟じた。古来孝子は親の、名を口にするのさえも畏れ遠慮するというような意味のことをうたった詩である。
「わかりますか? え? よく聞いて下さい」
 もう一遍、朗吟して、
「この気持だ。――え?」
 満州侵略戦争とそのためのひどい収奪のことも、その戦争の命令者である〔二字伏字〕のことも、人民は見ざる[#「見ざる」に傍点]、聞かざる[#「聞かざる」に傍点]、云わざる[#「云わざる」に傍点]、奴隷として搾られ、そして死ねというわけである。これは理性ある人間にとって不可能なことである。憤りと憎悪とが凍った雪を踏むようにキシ、キシと音をたてて身内に軋《きし》むのを感じる。――
 調べの始ったのは午前十一時前であった。今は夕方の六時だ。自分は憎しみによって一層根気づよくなり腰をおとさず揉み合っている。日本共産党をどう考えるかというようなことである。
 自分は、日本共産党は飽くまでも一つの政党であると云った。合法、非合法はその国の状態によるのであって、決して共産党そのものの本質的属性ではない。清水は、「日本共産党は非合法の秘密結社でアリマシテ云々」と他の誰かの調書にあるとおり、口授を承認させようとするのである。又、「働く婦人」が共産党の宣伝の道具であるというデマゴギーをも押しつけようとした。清水は綴じあわせたケイ紙を見せ、
「しかし、これを御覧なさい、『大衆の友』はちゃんとそうであると言明していますよ」
「そう云った人があるのなら、なお更口真似は出来ない。『働く婦人』の投書だとかそのほか書いてあることが、あなた方から見て共産党の云うところと一致しているのなら、それは、それだけ共産党というものが大衆の真の考え、要求をとりあげていると云うことになります。元は、共産党にあるのではなく、大衆の実際の生活とそこから浸み出す要求にあるのだ」
 夜、九時をすぎて、やっと終った。自分は編輯責任者として尊厳冒涜という条項に該当するのだそうである。時刻が時刻なのですっかり腹がすき、自分が激しい食慾で弁当をたべているむかい側で清水は何も食べず、煙草をふかしている。そして自分は女房には絶対服従を要求しているが、工合がわるいと云えば直ぐ医者にやるしなどということを尤もらしく云っている。彼の表情が次第に変った。四角い顔の半面が攣れていたようなのは消え、赤味も減り、蒼白く無表情に索漠とした顔つきである。肩つきまで下った。カサのない電燈の黄色っぽい光がその顔を正面から照りつけている。冷たい茶を啜り、自分はなお弁当をたべつづけた。――

        三

 メーデーの後、自分に対する襲撃の焦点が急に変って来た。もう「コップ」のことは問題でなく、今は党へ金を出している、それを云えというのである。自分にそのような事実はない。
 中川は、
「だァって、受取った人間がすっかり云ってしまっているんだから君ばっかりがんばったところで仕方がないじゃないか」
 また、もう随分長くて体も弱って来たのだから、云うことを早く云って市ケ谷へ行った方がこんな不潔な留置場に押しこまれているよりずっと健康のためにもよい、等云った。自分はよく眠り、体に気をつけてはいるが、膝頭がこの頃ではガクガクして二階の昇り降りが不便なのは事実である。
 十二日に、看守が、
「又、君たちの仲間がひっぱられたよ」
と云ったので、何事かと思い不安を感じた。特高で十一日の作家同盟第五回大会が解散された新聞を見せた。
「これじゃ、同盟は全部留置場の内へ引越したようなもんじゃないですか、ハッハッハ」
 主任は小気味よさそうに高笑いしている。自分はそのこまかく折目のついた新聞を手にとり、同志川口浩、徳永、橋本、貴司などが引致されたというところを繰かえして読み、これらの人々の闘争を、身近に感じるのであった。
 大会が持たれたという事は、しかし何とも云えぬ鼓舞であった。自分が書く筈で書き終えなかった婦人委員会の報告も、して見れば、誰かによってちゃんと書かれているのだ。そう思い、凜《りん》としたよろこびに満たされた。外では皆結束して働き、自分の部署は、今此処で正しいわれわれの主張のために闘うところに移されてある。それを貫徹するこそ役割の遂行である。そう、きつく確信をもって感じるのであった。

 五月十五日の夕方、三四度ドカドカと大勢して裏階子《うらばしご》をかけ上る跫音《あしおと》が留置場まで聞えた。それきり何のこともない。
 すると、次の朝、無銭飲食で二十日つけられている髪の毛ののびた雑役が、鉄扉の小さい切り戸から弁当を入れてくれながら、
「犬養がやられた」
と云って去った。――犬養がやられた。……犬養は首相である。何処で? いつ? 反動団体の仕業であるのはすぐ感じられた。味噌汁をついで呉れている間にこちらから訊いた。
「どこで?」
「官邸。……軍人だって」
「ふーむ」
 犬養暗殺のニュースは、私に重く、暗く、鋭い情勢を感じさせた。閃光のように、刑務所や警察の留置場で闘っている同志たちのこと、更に知られざる無数の革命的労働者・農民のことが思われた。
 十六日留置場の看守は交代せず、話しかけられるのを防ぐつもりか、小テーブルに突伏して居眠りばかりしていた。
 数日経って特高へ出されると、主任が、
「どうです!」
と、煙草のヤニのついた歯を出してにやにやした。
「ききましたか?」
「……犬養さんが殺されたって?」
「何しろ、撃てッ! と号令をかけてやったんだそうだからなあ……」
 意味深長に、威脅的に云った。
「どうも世の中の方はどんどん進んで行くね、あなたもそうやって坐ってるうちに、いつの間にかおいてきぼりをくいますよ、ひ、ひ、ひ」
 新聞を見せて呉れというと、わざと軍人テロリスト団が首相官邸へ乱入したところ、狙撃したところの書いてある部分だけを一枚よこした。そして、頻りに、
「これは私の老婆心からだが、あなたなんぞもここで大いに将来を考える時だね、この様子じゃ、決して楽観は出来ませんよ……やるなら死ぬ覚悟だ」
と云い、そういう時は、特別声を潜め、言葉をひきのばして云うのである。
 当日軍人テロル団が撒いたというビラを見た。それは田舎の中学生のような空虚な亢奮した文体で書かれ、資本家財閥の打倒! 生産の国家管理! 階級なき新日本の創設! などとスローガンが並べられ、人民を武装蜂起に挑発している。
 スローガンだけあるが、生産を国家管理にするといっても、それはどういう国家がどう生産を管理するのであるのか、階級なき新日本と云っても、犬養を殺し、軍部が暴威を振って階級が無くなるものでもなし、ファシズムの信じ難いほどの非科学性を暴露したビラである。
「……ファシストの理論はなっていないようだが……これで赤松あたりが大分関係があるらしいね。案外な役割を買って出ているらしいですよ」
 最近分裂して国家社会党を結成した赤松のことは関心をひき、自分は、
「今度の事件にでもですか?」
と、ききかえした。
「サア、そこいらのところは分らんですがね。総同盟系が何しろ五万というからね」
 煙草をプカリ、プカリと吹き、
「五万の人間がワーッと動き出せば[#「五万の人間がワーッと動き出せば」に傍点]、放っても置かれまいじゃないですか[#「放っても置かれまいじゃないですか」に傍点]」
 それだけ云って、あとは煙草を指に挾んだままの腕組みで凝《じ》っと横目に私の顔を眺める。――
「…………」
 対手の眼を見つめているうちに、仄《ほの》めかされた言葉の内容が、徐々に、その重要性と具体的な意味とで分って来る。――
 間を置いて、私は歯の間から一言、一言を拇指《おやゆび》で押すように云った。
「――然し、それは窮極において一時の細工だ。歴史は必ず進むように進むからね、帝政時代のロシアでは、サバトフが同じようなことをやった。しかしロシアの労働者は、それを凌いで
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