。または、
「ここへ通知人ナシと書け」
という。不馴れのものは、自分たちの権利のつかいどころを知らない。云われるままになるしか方策がない。今の場合、自分は、認定で送れるのだと云われても、ただ常識で、そんな不合理なことがあるか! と撥《は》ねかえすばかりなのであった。
「大体、文化団体の連中は、ものがわかるようで分らないね。佐野学なんかは流石《さすが》にしっかりしたもんだ。もっともっと大勢の人間がぶち込まれなけりゃ駄目だと云ってるよ。そうしなければ日本の共産党は強くならないと云っている」
 大衆化のことを、彼等らしい歪めかたで逆宣伝しているのである。
 押問答の果、中川は実に毒を含んでニヤニヤしつつ云うのであった。
「まア静かに考えておき給え。君がここでそうやって一人でがんばって見たところで、外の同志達はどうせ君ががんばろうなんぞとは思ってやしないんだから。――無駄骨だヨ」

 その頃、前科五犯という女賊が入っていて、自分は栃木刑務所、市ケ谷刑務所の内の有様をいろいろ訊いた。栃木の前、その女は市ケ谷に雑役をやらされていて、同志丹野せつその他の前衛婦人を知っているのであった。
 市ケ谷の刑事既決女囚は、昔、風呂に入って体を洗うのに、ソーダのとかし水を使わされていた。それが洗濯石鹸[#「洗濯石鹸」に傍点]になった。同志丹野その他の前衛が入れられてから、そういう人々は、人間の体を洗うに洗濯[#「洗濯」に傍点]石鹸という法があるかと、自分達の使う石鹸を風呂場に残しておいて皆に使わして呉れ、と要求して、今では花王石鹸が入っているのだそうだ。
 そういう話をし、その女は、
「ああいう人達は、とても確《しっか》りしたもんですからね」
と、自分の目撃を誇る調子で云った。
「ああいう人達が沢山入って来るようになってっから、私共の方だって全体にどの位よかったかしれないんですよ。女監守が、無茶に私共をいじめでもすりゃ、ひとのことだって黙ってやしないからね。文句を云うし、どんな偉い人だって目の下で、どこまででも持ち出して行くから、ビクビクものなんですよ」
 或る時女監守が女囚の一人を理由なく殴ったということから、独房の前衛婦人達が結束して抗議をはじめ、大騒ぎになった。男の方からやって来て、抑圧したのだそうだが、
「ふふふふ、その時ね、一人の女監守があわをくって、卒倒しちまったりしたんですよ」
 度々の獄中生活で、その女は二十八という年よりずっと干からびた体であった。骨だった肩にちっとも似合わない白っぽいお召を着て、しみじみ自分の手の甲をさすりながら、
「正直なところ、ああいうところへ入れられると赤く[#「赤く」に傍点]ならずにいられやしませんね。やり方がひどいからね、人間扱いじゃないもの。……」
 女監守は自分のものを干す物干竿と女囚のとをやかましく別にしていて、うっかり間違えて女監守の竿にかけでもすると、
「オイ、オイ! 誰だい? きたならしいじゃないか! 誰が間違えたんだ!」
と、すぐはずさせ、その物干竿に石鹸をつけてもういいという迄洗わせる。
「そいでいて、自分達がコソコソすることって云えば、平気でお香物やおかず[#「おかず」に傍点]の上前をはねてるじゃありませんか! きたならしくないのかねエ」
 刑務所の食糧は糖分が不足しているから、ウズラ豆の煮たのは皆がよろこぶ。ウズラ豆の日だと女監守は各房へ配給する前、一人ずつの皿からへつって自分のところへくすねて置き、休憩時間のお茶うけ[#「お茶うけ」に傍点]にするのだそうであった。香の物は四切れのところを、三切れずつにしてこれも、お茶うけにする。――
「そういうことを見せられちゃね……だから、女監守が休憩の時、よく私共に、共産党の女のひとがどの房とどの房で話しするか見張っていろって云うけれど、誰もそんなこと真面目にきくものはありませんわ。お忠義ぶる女は却っていじめられますよ」
 小声で話していると、いきなり、
「なに講義してる」
 いつの間にか跫音を忍ばせて、岨《そわ》にテロルを加えた赤ら顔の水兵上りの看守が金網に胸をおっつけてこっちを覗いている。
「…………」
「駄目だゾ」
「…………」
 この看守だけは、どんな時でも私に歌をうたわせなかった。迚《とて》も聴えまいと思う鼻うたでも、きっと意地わるくききつけ、「オイ」と低い声で唸って顎をしゃくうのであった。
 あっちへ行ったかと思うと、第二房で、
「……ねえ、そうじらすもんじゃないですよ。……たち[#「たち」に傍点]が悪いや!」
と、如何にも焦々する気持を制した調子で云っている声がする。この看守は煙草が吸いたくてたまらないでいる留置人の鼻先で、指もくぐらない細かい金網のこっち側へわざとバットを転しておいたり、今にも喫わしてくれそうに、ケースの上でトントン
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