だからなあ……」
 意味深長に、威脅的に云った。
「どうも世の中の方はどんどん進んで行くね、あなたもそうやって坐ってるうちに、いつの間にかおいてきぼりをくいますよ、ひ、ひ、ひ」
 新聞を見せて呉れというと、わざと軍人テロリスト団が首相官邸へ乱入したところ、狙撃したところの書いてある部分だけを一枚よこした。そして、頻りに、
「これは私の老婆心からだが、あなたなんぞもここで大いに将来を考える時だね、この様子じゃ、決して楽観は出来ませんよ……やるなら死ぬ覚悟だ」
と云い、そういう時は、特別声を潜め、言葉をひきのばして云うのである。
 当日軍人テロル団が撒いたというビラを見た。それは田舎の中学生のような空虚な亢奮した文体で書かれ、資本家財閥の打倒! 生産の国家管理! 階級なき新日本の創設! などとスローガンが並べられ、人民を武装蜂起に挑発している。
 スローガンだけあるが、生産を国家管理にするといっても、それはどういう国家がどう生産を管理するのであるのか、階級なき新日本と云っても、犬養を殺し、軍部が暴威を振って階級が無くなるものでもなし、ファシズムの信じ難いほどの非科学性を暴露したビラである。
「……ファシストの理論はなっていないようだが……これで赤松あたりが大分関係があるらしいね。案外な役割を買って出ているらしいですよ」
 最近分裂して国家社会党を結成した赤松のことは関心をひき、自分は、
「今度の事件にでもですか?」
と、ききかえした。
「サア、そこいらのところは分らんですがね。総同盟系が何しろ五万というからね」
 煙草をプカリ、プカリと吹き、
「五万の人間がワーッと動き出せば[#「五万の人間がワーッと動き出せば」に傍点]、放っても置かれまいじゃないですか[#「放っても置かれまいじゃないですか」に傍点]」
 それだけ云って、あとは煙草を指に挾んだままの腕組みで凝《じ》っと横目に私の顔を眺める。――
「…………」
 対手の眼を見つめているうちに、仄《ほの》めかされた言葉の内容が、徐々に、その重要性と具体的な意味とで分って来る。――
 間を置いて、私は歯の間から一言、一言を拇指《おやゆび》で押すように云った。
「――然し、それは窮極において一時の細工だ。歴史は必ず進むように進むからね、帝政時代のロシアでは、サバトフが同じようなことをやった。しかしロシアの労働者は、それを凌いでソヴェトにしたのだから……」
「ふむ……」
 仄めかされた数言は次のような内容に大体釈訳されるのであった。即ち赤松は軍部の指令によって或る革命的カンパニアの日にでも、暴動を挑発する。==総同盟系の反革命的労働者を煽動して、一定の公共物を襲撃させる。すると、直ちにそれを共産党の蜂起とデマり、鎮圧の名目で軍隊を繰り出し、市街戦で革命的労働者、前衛を虐殺し、それをきっかけに戒厳令をも布く。そのような計画が予定のうちにあるキッカケの為に、赤松は総同盟の労働者を最も値よく売ろうとしている、と云うことなのである。
 留置場に戻り、檻の内を歩きながら、自分は深い複雑な考えに捕われ、時の経つのを忘れた。
「働く婦人」などは、もっともっと目に見るように支配階級のこういう陰謀を摘発し、赤松らの憎むべき役割の撃破についてアジプロしなければならぬ。そう思うのであった。

 梅雨期の前でよく雨が降った。中川は十日に一度ぐらいの割で、或る時はゴム長をはいてやって来た。同じ金の問題である。
「君は、さすがに女だよ。もちっと目先をきかして、善処したらいいじゃないか。心証がわるくなるばっかりで、君の損だよ」
 目さきをきかすにも、事実ないことでは仕方ない。
 自分を椅子にかけさせて置き、
「一寸すみませんが田無を呼び出して下さい」
と、特高に目の前で電話をつながせた。
「ア、もしもし中川です。明日の朝早く細田民樹をひっぱっておいてくれませんか。え、そうです。細田は二人いるが、民樹の方です。ついでに家をガサっておいて下さい。――じゃ、お願いします」
 そんな命令をわざわざきかせたりした。
「――これも薯《いも》づるの一つだ」
 そして、嘲弄するように、
「マ、そうやってがんばって見るさ」
 ポケットから赤い小さいケースに入った仁丹を出して噛みながら云った。
「ブルジョア法律は、認定で送れるんだからね、謂わば君が承認するしないは問題じゃないんだ」
「そう云うのなら仕方がない」
 自分は云うのであった。
「事実がないからないと云って、それが通用しないのなら、出鱈目を云っている人間と突合わして貰えるところまで押してゆくしか仕様がない」
 こういう威嚇ばかりでなく、警察では例えば拘留がきまると親族に通知して貰えるキマリである。が、留置場で見ていると、大抵の看守は、いきなり、
「通知人ありか、なしか」
と訊いた
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