とった、ヒスイの簪《かんざし》の脚で頭を掻いては絶えず喋っている媒合《ばいごう》。自分。気違いがそこへ入って来た。ふらつき歩いた土足のまま何と云っても足を洗わない。着物の上にネンネコをひっかけ、断髪にもその着物の裾にも埃あくたをひきずっている。体全体から嘔きたくなるような悪臭がした。弁当を出し入れする戸口のところに突立ったなりどうしても坐らず、グー、グー喉を鳴らしている。
どの監房でも横にはなっているがまだ眠り切らない。初夏に近い宵らしく下駄の音などが頻りに聞え、外で遊んでいる子供らの甲高い声もする。切れぎれにラジオも響いている。
自分は畳んだ羽織やちり紙を枕がわりに頭の下へかい、踵の方に力をこめて、背筋をのばすように仰向きに寝ながら、それらの街の音をきき、ぼんやり電球を眺めている。
電球はいきなりむき出しに、廊下に向う金網の鉄の外枠から下っているのだが、それにはどういう訳か、駒込警察署と、字だけクモリで入れてあるのだ。
あっちこっちの監房で身じろぎや、あくび、寝入る前の動きがある。何十日でも、日光の射さぬ板の間に坐ったぎりでいるから、体を横にするだけでさえ、手足がくつろぐのであった。
不図《ふと》太鼓の音が南京虫にくわれて痒《かゆ》い耳についた。ドーン、ドン。ドン、ドン……段々近づいて来るのをきくと、それはキリスト教の伝道であった。益々早く太鼓をうち、何とかして、
信ずるものは誰れェも
みィな救ゥくわるゥ
急に止って歌をやめ、
「みなさァん」
声のわれた、卑俗な調子で短い演説のようなことをやったかと思うと、すぐドーンドーンドンドンドンと太鼓が鳴り出し、宵のざわめきを越えて、
信ずるものは誰れェも
と再び同じ歌が進行して来る。近所の教会の連中と見え、子供がたかって意味も知らずに声を張りあげ無味乾燥な太鼓に追いまくられるようにしながら、
みィな救くゥわるゥ――
と歩いている。留置場の横通りのところで暫くわざとのように太鼓をうっていたが次第に遠のき、今度はやっと聞えるか聞えないところで、
「みなさァん!」
とやっている。
「何だろう、うるさい!」
荒っぽく寝がえりをうちながら女給が舌うちをした。焦々といやな気持になってそれをきいていたのは自分ひとりでなかった。――
出たらこの留置場での経験をきっと書いて置こう。自分は段々そういう気になって来た。
留置場の五十日や百日は何だ。そういう意気で革命的労働者、農民が非人間的な条件の下にもひるまず闘いをつづけているのは本当である。同志小林が「独房」という小説の中で、プロレタリアは、どこにいても自信を失わず朗らかであると云っているのに嘘はない。
だが、現在の日本の有様では前衛的闘士ばかりか全く平凡な一労働者、農民、勤人、学生でも、留置場へ引ずり込まれ、脅され、殴られ、あまつさえ殺される可能が非常に増している。極めて当然な賃銀値上げ、待遇改善を要求しても直ぐ警察だ。学生や職場の大衆が知識欲をみたすための罪のないサークルや読書会をもっても二十九日、又それをむしかえしての拘留を食う。
留置場に長くいればいるほど、権力の手のこんだ専暴と、人民は無権利であることを切々と感じる。
初めて[#「初めて」に傍点]留置場へぶち込まれたからとか、ふだん人並の飯を食べているからとかの問題ではない。
看守の顔を眺めながら自分は、ソヴェト同盟の革命博物館のことを思い出すのであった。革命博物館には、種々様々の革命的文献の他に帝政時代、政治犯が幽閉されていた城塞牢獄の監房の模型が、当時つかわれた拷問道具、手枷足枷などをつかって出来ている。茶っぽい粗布の獄衣を着せられた活人形がその中で、獣のような抑圧と闘いながら読書している革命家の姿を示している。
工場や集団農場から樺の木の胴乱を下げてやって来た労働者農民男女の見学団は、賑やかに討論したり笑ったりしながらノートを片手にゾロゾロ博物館の床の上を歩きまわる。が、ここへ来ると、云い合わせたように誰も彼も黙ってしまった。頬が引緊った。自ら密集した。そして焙《や》けつくような視線でいつまでも立ち去らず蝋燭の光に照し出された牢獄の有様を眺め入った。
がっちりした肩を突き合わせた彼等の密集は底強い圧力を感じさせた。執拗な抗議を感じさせた。彼等が闘いとった権力をもう二度とツァーに返すものかという決意が、まざまざ読みとれ、彼等はやはり言葉すくなに、携帯品預所でめいめいの手荷物をうけとり、職場へ戻って行くのであった。
日本のこの留置場の有様[#「この留置場の有様」に傍点]が、そうやって革命博物館の内にそっくり示される時が来たら、赤いネクタイを首にかけたピオニェールたちが、どんなにびっくりして、その不潔、野蛮な様子を押し合って眺めるであろう!
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