を病院へ入れる評定にとりかかった。主任が両手をポケットに入れてやって来て、
「どんな工合かね」
というから、自分は待ちかねていたと云い、若し病院が面倒なら、斯う斯ういう病院へ紹介していいからと、せき立てた。
「ふむ」
 未練そうにもう一度病人を見下し、出てゆく。次に部長が来て、同じことを繰返す。係りの特高が来る。困ったねエと金歯を出していう。そして、その辺を歩いて、出て行く。丁度、じりじりと悪くなるのを番していて、とことん[#「とことん」に傍点]になるのを待っていると云うようである。
 午後一時頃やっと決心したらしく主任が来た。
「じゃもうすぐ入院するようにしるから」
 済生会病院へ行くことになった。特高が、フラフラの目を瞑《つぶ》っている今野を小脇に引っかたげて留置場から出て行った。
(附記。後で分ったことであるがそこの済生会病院では軍医の玉子が治療をした。そんな命がけの手術をするのに、そこを切れ、あすこを切れと、指図されるような不熟練者が執刀した。手術後、ガーゼのつめかえの方法をいい加減にしたので、膿汁が切開したところから出きらず、内部へ内部へと病毒が侵入して、病勢は退院後悪化した。同志今野が、どうも頭は痛くなって来たし変だと思い、苦痛を訴えたら、済生会の軍医は、却ってこれまで一日おきに通っていたのに、もう大分いいから四五日おきに来いと云った。どういうことかと思っているとそれから三日目に極めて悪性の乳嘴《にゅうし》突起炎を起し、脳膜炎を併発し、今度は慶応病院に入院、大手術をした。危篤状態で一ヵ月経ち、命だけをやっととりとめた。)

        二

「――ソラ見えるだろうが」
「見えやしませんよ」
 桜のことを云っているのである。警察署の裏、北向きの留置場では花時でも薄暗く、演武場の竹刀の音、すぐ横の石炭置場の奥にある犬小舎でキャン、キャンけたたましく啼き立てる野犬の声などがする。
 南京虫が出て、おちおち眠られない。
「夏になったらそれこそえらいもんだ。去年ここのところへ」
と、腐れ布団の入っている戸棚わきの柱のわれ目を叩きながら看守が云った。
「イマズをまいたら一どきに八十匹ばし出た」
 花曇りの期節が終ると、いつとなし日光の強さがちがって来て、日がのびた。第一房の金網ばりの高窓からチョッピリ三角形に見える青空と、どこかの家の黄色っぽいペンキを塗ったトタンの羽目が落付かない光で反射するようになった。非人間的な無為と不潔さでしずまりかえっている留置場の永い午後、表通りの電車のベルの音がひろく乾いて近づくにつれ波のように通りぬける。
 看守は多く居睡りをした。監房の中では男たちがシャツや襦袢を胡坐《あぐら》の上にひろげて、時々脇腹などを掻きながら虱をとっている。
 目立って自分の皮膚もきたなくなった。艶《つや》がぬけ、腕などこするとポロポロ白いものがおちる。虱がわき出した。虱の独特なむずつき工合がわかるようになった。おや、と思って襦袢を見ると、小さい小さい紅蜘蛛《べにぐも》みたいな子虱までを入れると十五匹つかまえる。そういう有様である。
 或る日の午後二時ごろ。――一台の飛行機がやって来た。低空飛行をやっていると見えて、プロペラの轟音は焙りつけるように強く空気を顫わし、いかにも悠々その辺を旋回している気勢《けはい》だ。
 私は我知らず頭をあげ、文明の徴証である飛行機の爆音に耳を傾けた。快晴の天気を語るように、留置場入口のガラス戸にペンキ屋の看板の一部がクッキリ映り、相川と大きな左文字が読めている。姿は見えず、飛行機の音だけを聞くのは特別な感じであった。しかも留置場内は、いつもどおり薄らさむくしーんとしている。鉄格子の中の板の間では半裸で、垢まびれの皮膚に拷問の傷をもって、飛行機の爆音の下で虱狩りをしている。――
 帝国主義文明というものの野蛮さ、偽瞞、抑圧がかくもまざまざとした絵で自分を打ったことはない。自分は覚えず心にインド! 印度だ、と叫んだ。インドでも、裸で裸足の人民の上に、やはり飛行機がとんでいる。人民の無権利の上に、こうやって飛行機だけはとんでいるのだ。革命的な労働者、農民、朝鮮、台湾人にとって、飛行機は何をやったか?(台湾霧社の土人は飛行機から陸軍最新製造の爆弾と毒ガスを撒かれ殺戮された。)
 猶も高く低く爆音の尾を引っぱってとんでいるわれわれのものでない飛行機。――
 モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]のメーデーの光景が思い出され、自分は濤《おおなみ》のように湧き起る歌を全身に感じた。
  立て 餓えたるものよ
  今ぞ日は近し
 これは歴史の羽音である。自分は臭い監房の真中に突立ち全く遠ざかってしまうまで飛行機の爆音に耳を澄した。

 三畳足らずの監房に女が六人坐っている。売淫。堕胎。三人の年
前へ 次へ
全20ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング