志はどんな場合にでも決して関係のない人間の名を出すことはしないもんだ。――同志だぜ[#「同志だぜ」に傍点]、それを云っているのは……」
「……知らないものは知らないというしかないじゃありませんか」
 監房に帰って、誰でもそうであろうが、自分は対手の云った言葉、目つき等を細かく思いかえし、敵の陣形を観察し、自身を堅める。

 今野の容態は益々わるい。中耳炎ときまった。自分は、永久に日光が射し込まない奥のゴザ一枚はいつもジットリ穢れでしめっぽい監房の中を歩きながら指を折って日を数えた。こんな状態で二十七日までもつであろうか?
 夜になると保護室の格子の前に水を張った洗面器が置かれた。夜なか誰かがそれで病人の濡手拭をしぼり直してやる。――
 四月二十四日の日暮れがた、高等へ出された時、自分は岩手訛の主任にしつこく今野を出して手当をさせろと云った。
「あなたがたは、いつも家庭の平和とか親子の情とかやかましく云っているのだから、見す見す中耳炎と分っているのに放っといて、一家の主人を留置場で殺すことも出来ないでしょう」
「ふむ」
 いがぐり頭を片手で後から撫であげ、唇をかむようにし、
「――大分苦しいらしいね」
「脳膜炎を起しかけてると思う……調べることなんか無いんだもの、ああやって置くのは実際ひどい」
「いや、医者がもうじき来ます、さっき電話をかけたから」
 暫くして、
「もう来ているかしらんて」
と独言のように云い、スリッパのうしろを鳴らしながら室を出て行った。高等主任だけが机の下にスリッパをおいていて、室にいるときはそれと穿きかえるのである。
 留置場へ戻され、扉があいたと同時に第一房の前の人だかりが目に映り、自分は、もう駄目か! と思わず手を握りつめた。第一房の鉄扉があけ放され、その外では主任、特高、部長、看守が首をのばして内をのぞいているところへ、入るべき場所でないところへ入ったと云う風な表情と恰好をして中年の町医者が及び腰で出て来るところである。うしろの方に佇んでいる自分に看守が、
「大分様子がわるいので……移した」
と囁いた。自分はうなずき、出て来た医者を、
「一寸!」
と呼びとめた。
「脳膜炎の徴候があるんじゃないでしょうか」
「さア」
 留置場じゅうの注目の前に止められて、照れくさそうにしかも狡《ずる》く、言葉をにごした。
「頸のうしろを痛がるのはそうでしょう?」
「……どっち道手術しなけりゃなりませんな」
 明らかに責任回避の態度を示す医者をとりかこんで皆がドヤドヤ出て行った。今晩が関所である。誰しもそれを感じた。監房の真中に布団を敷き、どうやら、思いきり脚をのばして独り今野が寝かされている。こんな扱いを留置場でされることは、もう最期に近いと云うことの証拠ではないか。枕元に、脱脂綿でこしらえた膿《うみ》とりの棒が散乱し、元看護卒だった若者が二人、改った顔つきで坐っている。
 今野は唸っている。唸りながら時々充血して痛そうな眼玉をドロリと動かしては、上眼をつかい、何かさがすようにしている。自分は、廊下の外から枕元の金網に鼻をおしつけるようにして見守った。間もなく、今野は唸るのをやめ、力いっぱい血走った眼で上眼をつかいハッ、ハッと息を切りながら、
「中條さん……切ないよゥ」
 自分はたまらなくなった。錠をはずしてある鉄扉を押しあけ、房の内に入った。高熱で留置場の穢れた布団が何とも云えぬ臭気を放っている。自分は、垢と病気で蒼黒く焼けるような今野の手を確り握り、やつれ果てた頬を撫でた。
「何だか……ボーとなって来たよ」
「頭、ひどく痛い?」
「頸の……ここが(手をそろりと後へやって)痛い……体じゅう何だか……」
 自分は、全く畜生※[#感嘆符二つ、1−8−75] と思い自分の体までむしられる思いがした。
「――今野!」
 夢中になりそうになる、忠実で、強固で、謙遜な同志の膏《あぶら》のにじみ出た顔へぴったり自分の顔をさしよせ、私は全身の力をこめて低く呼んだ。
「今野」
 その声で薄すり目をあけ、こっちを見た。
「まだ死んじゃいけないよ。いいか? 口惜しいからね、死んじゃいけない! いいか?」
「ああ」
「しっかりして……」
「あァ……」かわいた唇をなめて微かに「わかってるヨ」
 二人の若者は、きっちり坐っている膝頭に両手を突っぱり、
「俺たちのような、ヤクザとは違うんだから全く気の毒です」
と云った。自分は一寸でも脳の刺戟を少くするため、額をひやしている手拭を両目の上まできっと下げて置くように頼んだ。
 いつもならとうに鼾《いびき》がきこえている時刻なのだが今夜はどの監房も目をさましている。それでいて別に話し声もしない。自分は廊下に、窓の方を頭にして横になった。

 翌朝、平常どおり八時に出勤して来て凡そ十時頃から、やっと今野
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