その日のためにも、自分は書いて置く。そう思うのであった。

 メーデーが近づいた或る日、高等室へ出ると、火の気のない錆びた鉄火鉢の中へうず高く引裂いた本が投げこまれている。
 主任が、ズボンの膝をひきしめるようにしながら、
「どうです」
 目でその引裂いたものを指し示し、「朝日」に火をつけた。
 かがんで頁をといて見たら、誰かの「唯物史観」であった。
「あなたがやぶいたんですか」
「いや。今帰った若い者が、もう一切こんなものは読みません、とここで誓って破いて行ったんです」
「ふーむ」
 暫く黙っていたが、主任は乾いた舌をはがそうとするような口の動しかたをして、
「あなた方の考えているようなもんではないじゃないですか」
 自分はにやりとして黙っている。この主任は、事ごとに、彼から見れば所謂心理的[#「心理的」に傍点]な雑談をしかけ、警察的暗示を注入しようとするのが常套手段なのである。
 自分は正面の窓から消防署の展望塔を眺めた。白ペンキで塗られた軽い骨組みの高塔は深い青葉の梢と屋根屋根の上に聳えて印象的な眺めである。同じ窓から銀杏並木のある歩道の一部が見下せた。どういう加減かあっちへ行く人ばかり四五人通ってしまったら、往来がとだえ電車も通らない。不意と紺ぽい背広に中折帽を少しななめにかぶった確りした男の姿が歩道の上に現れたと思うと、そのわきへスーと自動車がよって止り、大股に、一寸首を下げるようにしてその男が自動車へのった。すぐ自動車は動いて行った。音のない、瞬間の光景だ。がその刹那、見ていた自分は急に胸が切ないようになり、息をつめた。――男の自動車の乗り工合のどこかが、今そこに宮本がいるような感じを与えたのであった。
 喉仏がとび出した部長が入って来た。机の引出しをあけて胃散を出してのんで、戦争の話をはじめた。
「失業者の救済なんてどうせ出来っこないんだから、片っぱす[#「す」に傍点]から戦争へ出して殺しっちゃえば世話はいらないんだ」
 極めて冷静な酷薄な調子で云った。
「この社会には中流人だけあればいいんだよ」
「中流人て、たとえばどういう人なんです?」
 自分がきいた。
「僕らの階級さ!」
 自分がいる横のテーブルの上に「メーデー対策署長会議」と厚紙の表紙に書いた綴じこみがのっている。自分がそれに目をつけたのを認め、主任は、煙草のけむをよけて眼を細めながら、書類の間をさがし、
「――見ましたか」
と一枚のビラをよこした。共青指導部の署名で出された、赤色メーデーを敢行せよ! というビラである。
「そういうものが、こっちの方へ却って早く入るんだから妙でしょう」
 狡い、ひひという笑いかたで太い首をすくませた。
「マァ、この懸け声がどの位実現されるか見ものだね」
 留置場へ降りがけ、教習室をとおりぬけたら正面の黒板に、
  不逞《ふてい》鮮人取締
  憲兵隊との連携
と大書してある。

 いよいよメーデーだ。警察じゅう一種物々しい緊張に満ちている。非番巡査まで非常召集され顎紐をかけ脚絆をつけた連中が内庭と演武場に充満して佩剣《はいけん》をならしている。
 高等室では主任と宿直だけがのこり、署の入口のところに二台大トラックが止って、二人の普通の運転手がその上でだらしなく居睡りをしている。
 頻りに電話がかかって来た。
「ハア、ハア、今朝共同印刷へ、明治大学の学生と鮮人労働者が三十人ばかり押しかけましたが……それだけです。ハ、ハ」
 或は、
「こちらは異状ありません、ハ? いや何とも云って来ません」
 警視庁で全市の警察から情報をあつめているのだ。
 丁度上野でデモが解散という刻限、朝から晴れていた空が驟雨《しゅうう》模様になって来た。
「こりゃふるね」
「同じふるなら、早くたのみますね」
 かわりがわり本気で窓から空模様をうかがっている。黒雲は段々ひろがった。やがて若葉の裏を翻して暗く重く風が渡り、暗澹とした夕立空の前にクッキリ白い火見櫓が立ち、頂上のガラスを鈍く光らせたと思うと、パラリ、パラリ大粒なのが落ちて来た。自分は思わず心の内に舌うちをした。
 ザーッ、ザッと鋪道を洗い、屋根にしぶいて沛然《はいぜん》と豪雨になった。
「ふーゥ、たすかった!」
「これでいい。いい塩梅だ!」
「これだけ降っちゃデモれないからな」
 彼等は、上野の山で解散したデモのくずれが、各所で狼火《のろし》のような分散デモを行うことを、かくも戦々兢々と恐怖していたのである。
 自分は初め、何のために高等へ出しておかれたのか分らなかった。初めは恐らく自分に日本の発達した警察網の活動ぶりを示威するつもりであったのだろう。けれども、現実の結果は、彼等の心配、周章の証人となったわけである。
 メーデー警戒で、看守は四十八時間勤務をさせられている。今年のメーデーは特
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