れ、廊下の隅に眠っていた自分は鼻の穴がムズムズするような埃りをかぶって目を醒した。
 酔っぱらいは保護室へぶちこまれてからも、
「僕ァ……ずつ[#「ずつ」に傍点]に、ずつ[#「ずつ」に傍点]に口惜しいです。僕ァこんなところで……僕ァダダ大学生です!」
 声を出して咽《むせ》び泣いている。
「五月蠅《うるせ》え野郎だナ。寝ねえか!」
 眼の大きい与太者がドス声でどやしつけている。
「ねます! ねますッ。僕ァ……口惜しいです。僕ァ……ウ、ウ、ウ……」
 第二房でも眼をさまし、鈍い光に照らされ半裸体の男でつまっている狭い檻の内部がざわつき出した。
「何だ、メソメソしてやがって! のしちゃえ、のしちゃエ!」
 看守は騒ぎをよそに黒い外套を頭からすっぽり引きかぶって、テーブルの上に突っぷしている。
 物も云わず拳固で殴りつける音が続けざまにした。暫くしずまったと思うと、
「アッ! いけねえ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 とび上るような声が保護室で起った。
「仕様がねじゃねえか。オイ、オイ、そっち向いた、そっち向いた」
「旦那! 旦那! あけてやって下さい!」
「旦那すんませんがあけて下さい。此奴《こいつ》、柄にもなく泡盛なんか喰《くら》いやがって……」
「フッ! 臭せェ!」
 誰かの上に吐いたのだ。

 自分は今野の体が心配で半分そっちへ注意を引かれた心持で朝十分間体操をやる。病気になってはならない。益々そう思うようになった。
 十時頃、冷えのしみとおったうすら寒さと眠たさとでぼっとしているところへ、紺服の陽にやけた労働係が一人の色の白い丸ぽちゃな娘をつれて来た。
「しばらくここにいな」
「房外かね」
「そうだ」
「さ、ねえちゃん、そこへ坐ってくれ。仲間があって淋しくなくていいだろう」
 娘は、派手な銘仙の両袖をかき合わせるようにして立っていたが、廊下のゴザの上へ自分と並んで坐り、小さい袋を横においた。むっちりしたきれいな手を膝の上においてうな垂れている。中指に赤い玉の指環がささっている。メリンスの長襦袢の袖口には白と赤とのレースがさっぱりとつけてある。――
 程たってから自分は低い声でその娘に聞いた。
「つとめですか?」
「ええ」
「会社?」
「地下鉄なんです」
「……ストアですか?」
「いいえ。――出札」
「…………」
 自分は異常な注意をよびおこされてそれきり暫く黙っていた。地下鉄ではついこの三月二十日から三日間従業員約百名内出札の婦人四〇名が参加して地下の引込線を利用して車輌四台を占領し、全国的注意を喚起したストライキをやった。原因は出征従業員を会社側で欠勤扱いにしたことであった。「触ルト死ぬゾ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と大書した紙をぶら下げた鉄条網に二百ボルトの電流を通じて警官の侵入を防いでいる写真が新聞に出たりした。闘争基金千円を募集し食糧を一ヵ月分車輌の中に運び込んでいること。婦人従業員をふくめた自衛団が組織され、全員十六歳から二十五歳という青年だがその統制が整然としていること。職場の特殊性をすべて争議団側に有利なように科学的に利用している点とともに、革命的指導による極めて新しいストライキの型を示すものであった。交通産業上に歴史的なばかりでなく、これまで日本にあったストライキから見ても、溌溂とした闘争力、計画性、科学的なやりかたで、広い影響を与えた。
 信州でも、地下鉄のストライキとその婦人も勇敢に闘ったやりかたについては話に花が咲いたのであった。
 ストライキは会社と警察を手古摺らせたが強制調停で終った。出征兵士は欠勤とし軍隊の日給をさし引いた賃銀を支給すること、各駅にオゾン発生器をおくこと、宿直手当、便所設置その他を獲得し、婦人従業員の有給生理休暇要求は拒絶されて女子の賜暇を男子と同じによこせ、事務服の夏二枚冬一枚の支給、その他を貫徹した。白鉢巻姿の、決意に燃える婦人争議員の写真が目にのこっている。
 このストライキが起る前、地下鉄の従業員達は出征する従業員を品川駅へ見送りにやらされた。が、その連中は会社側が渡した日の丸の旗を振ることを大衆的に拒絶し、プラットフォームで戦争反対の演説をやって、メーデー歌を合唱したという話がある。又、ストライキに入った第一日に従業員出身の現役兵が籠城中の争議団員のところへやって来て、一緒に「資本家と闘いたい」と申し出た。ストライキ委員会は、それだけの熱意で兵営内闘争をやってくれと云い、兵士と従業員は革命的挨拶を交して別れたということも聞いた。
 地下鉄、出札と聞いた瞬間、自分は一種の重圧をもって稲妻のようにそれらの闘争を思い起した。あのような顕著なストライキ後、敵は何かの形で、経営内を荒すであろう。この内気そうなぽっちゃりした娘さんと敵の襲撃とはどのような関係にあるのだろう
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