煙草を出して唇の先へ銜《くわ》え、マッチをすり、火をつけると、一吹きフーと長く煙をはいた。その手がひどく震えて居る。煙草の灰がたまりもしないのに三白眼でこっちを睨みつめながら指先をパタパタやって灰をおとす。その手も震えている。
 目をうつすと、テーブルの脚のところに何本もしごいた拷問用の手拭がくくりつけてある。――いきなり、その一寸した隙に飛びかかるような勢で、
「何だ! その椅子のかけようは!」
と呶鳴《どな》った。自分は、普通人間が椅子にかけるようにゆったり深く椅子の背にもたれてかけていたばかりだ。
「ここをどこだと思ってる! 生意気な! 警察へ来たら警察へ来たらしくするんだ!」
 吸いかけた煙草を床の上へすて、靴の先で揉み消し、縦に割れた一尺指しをテーブルの上からとり、それで机にかけていた私の肱を小突いた。
「大体貴様は生意気だ。こっちが紳士的に調べてやっても一向云わんそうだから、今日は一つ腕にかけて云わしてやる! 君達ァ白テロ白テロってデマるから、一つその白テロをくわしてやるんだ」
 ドズンと、竹刀《しない》で床を突いた。長い竹刀はちゃんとさっきからその男の横の羽目に立てかけてある。
「共産党との関係を云えッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「――そういきなり呶鳴ったって、何が何だか分りゃしない」
 そう自分は云った。
「それはどういうことなんです」
「フム。……じゃ一つ一つ行こう」
 特徴的に狭い額に、深い横皺のある賤しい顔つきをした男は警視庁と印刷のしてあるケイ紙を出し、そこへ、
  赤旗
  共青
  資金関係
 そんな風な項目を書き並べた。
「サア、いつから赤旗を読んでる!」
 自分はそういうものは知らない。そう答えるや、
「嘘ォつけェ!」
 狭い室でうしろの窓硝子がビリビリするような大声だ。呶鳴りながら、野蛮な顔の相好を二目と見られぬ有様に引歪め、
「貴様、宮本からもらって読んでるじゃないかッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 ドズン!
 何というこれは愚かな嘘であろう。
「知らない、そんなもの」
「知らないィ?」
「知らない」
「人をォ……どこまで馬鹿にするつもりだ」
「知らないんだから仕様がない」
「云わんか」
「…………」
「畜生! いい気になりゃがってェ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 竹刀が頭へ横なぐりに来た。
「どうだ! 云え※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「…………」
「強情つっぱったって分ってるんだ」
 そして、嬲《なぶ》るように脛を竹刀で、あっち側こっち側と、間をおいてぶった。
「宮本がもうすっかり自白しているんだ。自分が読ましていたことさえ承認したら女のことでもあるし、早く帰してやって貰いたいと云っているんだ」
 侮蔑と憤りとで自分は唇が白くなるようであった。刺すように語気が迸《ほとばし》った。
「――宮本が、どこにつかまっているんです!」
 さすがにためらった。口のうちで、
「いつまでも勝手な真似はさせて置かないんだ」
 ガラス窓からは晴れた四月の空と横丁の長屋の物干とが見える。腰巻、赤い子供の着るもの。春らしい日光を照りかえしながらそんなものが高くほさっている。
 竹刀で床を突いては、テラテラ髪を分けた下の顔をつくって呶鳴る縞背広の存在とガラス一重外のそのようなあたり前の風景の対照はちぐはぐで自分の心に深く刻みつけられるのであった。
 ケイ紙に書きつけた一項一項について、嘘を云っては、
「云わないつもりかァッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
と竹刀を鳴らし、又、さけた一尺指しで顔を打とうとする。
 三時間ばかりしてケイ紙は白いまんま、自分は留置場へ追い下ろされた。

 その日の夕暮、今野が片手で痛む左の耳を押えたなり蒼い顔をして高等室から監房へかえって来た。
「何ちった?」
 そう云って訊く看守におこった声で今野は、
「あんな医者になんが分るもんか。道具ももって来やしない。ひやしていろと云ったヨ」
と、足をひきずるようにして保護室に入った。風邪で熱が出て扁桃腺が膨《は》れていたところをビンタをくったので耳へ来て、二日ばかりひどく苦痛を訴えた。濡れ手拭がすぐあつくなる位熱があって、もう何日か飯がとおらないのであった。保護室には看護卒をしたというかっ払いが二人いて看守に、
「こりゃきっと中耳炎だね、あぶないですよ旦那放っといちゃ」
などと云い、今野自身も医者に見せろと要求した。
「貴様らァわるいこったら何でも知っていようが、医者のことまじゃ知るまい。余計なこと云うな」
 だが、今日は呻《うな》るように痛いので自分まで要求してやっと医者を呼ばせたのであった。その医者が、ひやしていろ、と、つまり診ても診ないでも大して変りのないことを云ったのだ。
 夜中に酔っぱらいが引っぱって来ら
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