家としての自身の発展に対しても、稲子さんは、ずるずるべったりなところがない。このことは、或る場合、現在のような時期には、複雑な内容で彼女を苦しめることも、私にはよく理解されるように思う。プロレタリア作家として窪川稲子は、作品の或る情趣とか、リリカルな効果とかそんなものでは安心しない深く真面目な芸術家としての感覚をもっている。又、自分の作家的出生即ち、家庭の事情によって小学校さえ卒業させられず、少女時代から勤労者の生活を経験したという、そういう出生だけをふりかざして安心してもいない。経験主義者の持つ安易な評価は、自分自身に対してもひとに対しても抱いていないのである。階級全体の発展が大なる困難におかれている時、彼女のように過去の生活において直接間接永い間大衆の力との密接な連関で作家としても正しく育って来た作家は、自身の作家生活の実態において今日の大衆の苦難を感じそれと闘っているのではあるまいか。
『牡丹のある家』という小説集は、よく読んで見るとそういう窪川稲子を私に理解させ得る力を含んでいるのである。最近書かれる多くの感想・評論によってもそれは分る。
窪川稲子の業績や将来の発展というもの
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