ていることははっきり感じていたが、勁い力、一旦こうときめたら動かぬというところの価値などは、階級的な鍛錬の浅い当時の私に分らなかったのである。
 一九三二年の春から一九三三年の冬まで窪川鶴次郎が他の多くの仲間とともに奪われ、その間プロレタリア文化運動全般に益々困難が加わり、「ナルプ」は遂に一九三四年二月解散するに到った。経験に富んだ活動家を失ってからの仕事は内外とも実にむずかしく、稲子さんも私も全力をつくして階級的に正常なものであると考えられる方向に向って行動するために努力したのであったが、客観的な結果としてはそれが十分の一も具体化されない状態であった。
 稲子さんは一九三二年の夏は大森の実家が長崎へ引上げた後の家に生れたばかりの達枝と健造、七十を越したおばあさんを引つれて住み、秋、戸塚の方へ引越して来たのであった。大森の家へ行ったにしろ、それは実家の父親が発狂して職についていられなくなり、故郷へ帰ったからであった。稲子さんは自分の二人の子供達を食わせ、おばあさんを養わねばならない上に、獄中の良人のために心労をし、しかも当時の仕事の性質上、金は極端にとれなかった。獄中の鶴次郎さんに差入
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