について私は殆ど全く知らなかったから、ごく普通に考えて、私は自分が稲子さんより年上だし劬って上げなければならないという気がしていたのであった。そのことを考えると、私は今何だかいい意味でだが笑えて来る。稲子さんの方は、私がまるで新しい活動に入って来たのだからと、却ってそれとなくいろいろ気を配ってくれたのであったろう。その講演会のとき撮った写真がある。この間もそれを二人で見て、私が「この私!」と云って笑ったら、稲子さんも「ねえ!」と云い、声を合わせ、そのときから今日までの二人の生活に対し深い感慨を覚えながら、大いに笑った。
 一九三二年窪川さんが獄中生活にうつるまで稲子さん一家は下十條にいて、私はよくそこを訪ね、次第に作家同盟の仕事や、『働く婦人』という雑誌の編輯の仕事やらで、会わずにいられないようになった。
 その時分でも、私は十分稲子さんがわかっていなかった。窪川鶴次郎の妻というような面が家庭内の日常生活のうちでは自然押し出されていたし、又無口な性質で、何かにつけても結論だけ感想風な表現で云うという工合であったから、稲子さんが文学についても生活についても大変鋭いそして健全な洞察力をもっ
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