窪川稲子のこと
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)劬《いたわ》る
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大変|劬《いたわ》る心持であった。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三五年三月〕
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窪川稲子に私がはじめて会ったのは、多分私がもとの日本プロレタリア作家同盟にはいった一九三〇年の押しつまってからのことであったと思う。私はその頃本郷の下宿にいて、そこで会ったように思う。最初の印象は、今日もう思い出せなくなってしまっている。そのときも彼女らしく、どこといって変に目立つようなところを外見にもっていなかったのであったろう。
次の年の寒い時分、大阪に『戦旗』の講演会があって徳永直、武田麟太郎、黒島伝治、窪川稲子その他の人々が東京駅から夜汽車で立った。私は次の日出かけることになっていてステーションまで皆を送りに行ったら、丁度前の日保釈で出たばかりの小林多喜二が、インバネスも着ず大島絣の着物の肩をピンと張って、やっぱり見送りに来ていた。待合室の床の上にカタカタと高く下駄の音をたてて歩きながら小林は大きい声で秋田訛を響かせつつ何か話していた。
大阪と京都との講演会の間、稲子さんと私とは或る友人の家に泊った。大阪ではひどい雨に会って、天王寺の会場へゆく道々傘をもたない私共は濡れて歩いたのであったが、稲子さんは、宿をかしてくれた友達のマントを頭からかぶって、足袋にはねをあげまいと努力しながら、いそいで歩いた。私は洋服を着て、その不自由そうな様子を大変|劬《いたわ》る心持であった。私が何かいうと「ありがとう、大丈夫です」と稲子さんは笑顔をした。夜おそくなって友達のところへかえると、稲子さんはああお乳が張った、御免なさいと、立てた膝の上に受けるものをおいてお乳をしぼった。今五つの健造がまだお乳をのんでいた。その子を置いて講演会に出て来ていたのである。私は並べて敷かれている自分の寝床の方から稲子さんのお乳をしぼっているところまで出かけてゆき、プロレタリア作家としての女の生活を様々の強い、新鮮な感情をもって考えながら、やっぱり一種心配気な顔つきで稲子さんのお乳をしぼる様子を謹んでわきから眺めた。まだその頃、稲子さんの過去の生活にどんな階級的な蓄積があるかということなどについて私は殆ど全く知らなかったから、ごく普通に考えて、私は自分が稲子さんより年上だし劬って上げなければならないという気がしていたのであった。そのことを考えると、私は今何だかいい意味でだが笑えて来る。稲子さんの方は、私がまるで新しい活動に入って来たのだからと、却ってそれとなくいろいろ気を配ってくれたのであったろう。その講演会のとき撮った写真がある。この間もそれを二人で見て、私が「この私!」と云って笑ったら、稲子さんも「ねえ!」と云い、声を合わせ、そのときから今日までの二人の生活に対し深い感慨を覚えながら、大いに笑った。
一九三二年窪川さんが獄中生活にうつるまで稲子さん一家は下十條にいて、私はよくそこを訪ね、次第に作家同盟の仕事や、『働く婦人』という雑誌の編輯の仕事やらで、会わずにいられないようになった。
その時分でも、私は十分稲子さんがわかっていなかった。窪川鶴次郎の妻というような面が家庭内の日常生活のうちでは自然押し出されていたし、又無口な性質で、何かにつけても結論だけ感想風な表現で云うという工合であったから、稲子さんが文学についても生活についても大変鋭いそして健全な洞察力をもっていることははっきり感じていたが、勁い力、一旦こうときめたら動かぬというところの価値などは、階級的な鍛錬の浅い当時の私に分らなかったのである。
一九三二年の春から一九三三年の冬まで窪川鶴次郎が他の多くの仲間とともに奪われ、その間プロレタリア文化運動全般に益々困難が加わり、「ナルプ」は遂に一九三四年二月解散するに到った。経験に富んだ活動家を失ってからの仕事は内外とも実にむずかしく、稲子さんも私も全力をつくして階級的に正常なものであると考えられる方向に向って行動するために努力したのであったが、客観的な結果としてはそれが十分の一も具体化されない状態であった。
稲子さんは一九三二年の夏は大森の実家が長崎へ引上げた後の家に生れたばかりの達枝と健造、七十を越したおばあさんを引つれて住み、秋、戸塚の方へ引越して来たのであった。大森の家へ行ったにしろ、それは実家の父親が発狂して職についていられなくなり、故郷へ帰ったからであった。稲子さんは自分の二人の子供達を食わせ、おばあさんを養わねばならない上に、獄中の良人のために心労をし、しかも当時の仕事の性質上、金は極端にとれなかった。獄中の鶴次郎さんに差入
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