見えない塵が浮動している。
 酒が始ってからざっと三時間、おせいは、ふえも減りもしない小盃を前に据えたまま、時々|鮓《すし》をつまんだり、団扇を使ったりして、ひそかな退屈を紛らしているのである。
 ひとふきの涼風で、彼女は物懶《ものう》い瞼も冴え冴えと、甦るような心持がした。
「いい風ですことね。御近所に川でもありますの?」
 彼女の斜向《はすか》いで、夫の健介や主人の小関に団扇の風を送っている妻のおふゆに訊いた。
「いいえ、川なんかずっと遠方なんですよ。でも、いい風でしょう、仕様のない家だけれども、こればっかりがとり得ですのよ」
「なに? 風ですか」
 小関は、食卓に盃を置きながら、酒ほてりの顔を、彼女等に向けた。
「ええ、いい風が来るって云っておりましたの」
「はははは。風がお気に入るとは面白いね。まあ、せっかく来て下すっても、何のお愛想もないから、せいぜい涼んででもおいでなすって下さい。……どうです健介さん」
 主人は、銚子をとりあげながら、健介の方に向きなおった。
「貴方はいいでしょう。まさか、奥さんが涼むから、おれも涼まなきゃあいやだという訳でもありますまい。さあ、どうです」
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