でもするように、吉原の繁栄を誇るのが、おせいには滑稽にも片腹痛くも思われた。
 小関の家から廓《くるわ》の中心まで、十町とはない位であった。従って、日が落ちると下駄の木地屋をやっている店を片づけ、晩酌でもすますと気が向き次第、ぶらぶらと、おふゆの云う通り、当もなく、あっちこっち覗いて歩き廻るのだろう。景気のよしあしに詳しいのも無理はない。よい案内者に違いないが、一方では、風俗問題だの国民の道徳問題だのと頭を悩す人達があるかと思えば、この小関のように、自分一人で、その土地の栄枯盛衰にあずかっているように、馴染深い親密な態度で向っている者もある。おせいは著しい人心の対照を感じずにはいられなかった。
「それでも、この二三年のようなことは、もう当分見られますまいね。あの時分の賑やかさといったら知らない者には嘘のようでしたよ」
 彼等は、通りを横切って、間もなく、目先の妙にがらんと開いた場所に出た。薄暗い空地の中に、ぼんやりと門のようなものが立ってい、左手には大きい木造の洋館が見える。燈火の明らかでない様子や、足下の地面が乾いてぽこぽこ砂塵をあげるのが、おせいに何となく、田舎の郡役所などの正面を思い起させた。
 小関は、いつも健介夫婦の左側に立ち、少しずつ先に歩いて行く。
「足元が暗うござんすよ。――ここが、所謂公園ですな」
 そう云われて見ると、なるほど、躑躅《つつじ》などの植込みを縫う小径や、あっちこっちの空地には、大勢浴衣がけの男女が用もなさそうにぶらぶらしている。白い単衣の背中だけがぼうっと見える木蔭で、パッと燐寸《マッチ》をする。狭い灯かげで、若い者が五六人顔をつき合わせてしゃがんでいるのが見えた。そうかと思うと、何に使うか大きな材木をたくさん積み重ねておいてある上に腰をかけて、さも一大事が起ったらしく、男と女が人目もかまわず月光を浴びて囁き合っている。おせいは、物珍らしいと同時に、一種名状し難い気づまりを感じた。通る女も、彼女のように重くるしい装のはなく、皆派手な湯上りか何かで、さらりと素肌に風を入れて行くのである。
 薄暗い処を抜けて、また一つの通りに出ると、おせいは始めてややほっとした。
 ここでは、往来が、両側の店舗から流れ出す燈火で、如何にも夏の夜らしくきらきらと輝いている。中央に、市が立っている。通りはおのずから二条に岐《わか》れて、子供連れだの夫婦づれだのの涼み客が、植木や金魚桶をひやかしながら、ぞろぞろ潮のように動いて行くのである。
「どうです? 何か一つおとりなすっては。なかなか馬鹿に出来ないものがありますよ」
 一寸目に付く盆栽などがあると、小関はひょいと延び上って、器用に人の肩越しに、台の上を覗いて見る。
 けれども、おせいは、その要領の好いひやかし振りなどにちっとも気をつけてはいられなかった。彼女は、多勢の人中で夫とはぐれないように、絶えず自分の片方に注意を配りながら、然も、一生懸命、初めての夜市の光景を見逃すまいとするのである。
 何しろ人出が多くて、容易に露店の前までは近寄れない。が、大きい市松模様の虫屋籠を見たり、燈火の上に高く流れる月の光りを照り返すように種々様々な提灯や行燈が揺れている店などを眺めると、彼女は何とも云えぬ興に動かされるのを覚えた。
 賑やかな赤い酸漿《ほおずき》提灯に混って、七色の南京玉で拵えた吊燈籠なども見える。四隅に瓔珞《ようらく》を下げ、くくれた六角のところに磨り硝子《ガラス》をはめ、明治初年さながらの趣で、おせいの瞳に写るのである。
 彼女は、七つ八つの時分を思い出して、床しい心地さえした。その頃、浅草の近くに、父方の祖母が住んでいた。そこへ泊りがけに遊びに行っては、所在なさに繰返し繰返し眺めた「東都名所図絵」という、雲母《きらら》のにおいのする大判の絵草紙の中で、彼女は初めて、このように南京玉の瓔珞をつけた燈籠をも知ったのである。
 矢張り、どこかの茶屋の涼台の有様ででもあったのだろう。川を見下す涼しそうな広縁に、茶っぽい織物の大きな帯を解けそうにゆるく腰にまきつけた女が、薄ものの袖から透きとおる腕をあげて簪《かんざし》にさわりながら、くずおれている。欄干の上に、二つ三つその菱形の燈籠が下っている。――
 夜の空に、その燈籠の長い房々や子供らしい色の華やかさが余程綺麗に思われたのだったろう。十何年振りかで図らずそれらしいものを見、彼女は変らない懐しさを感じずにはいられないのである。
 ――気を奪われて歩いているうちに、いつか通りは楽になり、露店の絶えた処に出た。
 左右には、びっしりと、高い大きい家々が立ち並んでいる。それらの建物の通りに面した下の方は、その中に見せ物でもあるように、格子一重の中が通り抜け自由になっているらしい。ちらほら人影があるばかりで、明るい往来も
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