い女が、黒い、むっとしそうな歯車の間に見えかくれしている。普通の長屋を間に合わせの工場にしてある。道路から透きぬけに奥の方まで見える表には一人二人男が立ち止り、わざと知らん顔をしている女に、ちょいちょい何か云ってからかっている声がする。――低い向い側の屋根からずうっと彼方まで拡がっている夜の空を眺め、貧しいトタン屋根の斜面にどこからか微にさしている月影を見ると、おせいは、急に外が恋しくなった。
 こんな家ごみを出、露路を抜け、からりとした大通りを風に吹かれて歩いたら、どんなに心持がいいだろう。彼女は、もう酒には飽き飽きしていたし、話にも一向興が移らなかった。そうかといって、まさか、もうそんな話は止めましょうよ、とも云いかねるその場の状態が、一層おせいの退屈を募らせた。こんな月の涼やかな夏の良夜を、狭い部屋に閉じ籠って、酒のにおいに当てられて過してしまうのは、如何にも惜しく思われるのである。
 おせいは、窓に向ったまま、所在なさそうに下を向いて、帯やおはしょりの端を引張った。
 それにしても、もう何時頃になったのだろう。あまりおそくならないうちにここを出て、ゆっくり一停留場も歩いて帰りたい気がする。
 彼女は、それとなく皆の方へ振返った。すると、健介が、まるでおせいの望を心の中から読みとりでもしたように、兵児帯の間から時計を出し始めた。
 坐りながら、彼女はごく自然に、
「もう何時頃になりまして?」
と訊くことが出来た。
「余り長くお邪魔しても……」
「何、まだ宵のくちですよ。九時になりますまい? 十二時までは電車があるから、まあゆっくりしていらっしゃい」
 小関は、健介の手許を覗き込むようにしながら云う。
「――もうかれこれ九時過ですね」
 健介は、胸を反すようにしてゆっくり時計を元の処にしまってから、おせいを顧みた。
「そろそろお暇《いとま》にしようか?」
 彼女が何とも云わない先に、主人夫婦は声を励して止めにかかった。
「いいじゃあありませんか、健さんも、どんなに途が遠いったって二時間はかかりますまい?」
 しかし、健介も内心では、もうさほどの興味も持っていないらしく見えた。明朝、出勤時間が早いことを理由にして、座を立ちかけていると、突然、ひどい音をたてて誰かが階段を上って来た。
「誰?」
「僕!」
 入って来たのは、息子の武雄であった。先刻《さっき》、何か学用品を買いに出て、戻って来たのだろう、突っ立ったまま、
「今夜は午市《うまいち》なんだねえ、随分外は賑やかだよ」
と息を弾ませて報告した。
「おや、そうかえ。ちっとも知らなかった……」
 挨拶の中途の、膝をついて息子を見上げていたおふゆは、それで俄に思いついたというように、おせいの方を向いた。
「丁度いい塩梅だ。行って御覧なさいませんか?」
「ああ、そりゃあいい。午市というのはね」
 小関も辞儀をやめにして健介に説明した。
「なか[#「なか」に傍点]に立つ夜市でしてね。植木や何かが主なんだがなかなか盛んなものです――それに何でしょう?」
 彼は、健介夫婦を見くらべながら、にやにやした。
「お二人ともあんな処へは足ぶみもなさらないんだから、ついでにずうっと一廻りして来るとようござんす」
「……さあ」
 健介は、おせいと顔を見合わせるようにして笑った。
「どうしますかね?」
 おせいも、何だか変な心持がした。行って見たいような、また不気味なような。――彼女は、何ということもなく間の悪い心地がした。
「私はどちらでも……」
「一遍は見てお置きなさいましよ。話の種ですわよ」
「御案内役は、私が引受けます。近頃喧しく種々のことを云ったり書いたりする人もあるらしいが、読んだって貴女どこのどんなものだか、外側も知らないじゃあ、話にもなりますまい。またという時はないもんだから、お伴しようじゃあありませんか」
 躊躇しているところを口々に勧められ、おせいは、好奇心の動くのを感じた。全く違った山の手に子供のうちから住み、そんな処にはまるで縁なく育って健介の妻になった彼女には、また何時そんな折があるかも分らなかった。
「……行って御覧になりますか?」
 彼女は、若し健介がいやだと云えば、忽ち断る積りで夫の顔を見た。
「物好きだね。――じゃあ御面倒をかけますかな」
 小関は、如何にも自分達の申出が受けられたのを喜ぶ風に見えた。
「いらっしゃいとも。何にせ東京名物の一つですからね」
 中腰になっていた彼は、立って、せかせかと薄羽織を着た。
「こういうお伴は、大好きですよ。いつだって十一時過頃まで、どこを歩いて来るんだか、ブラブラ出てばっかりいるんですからね」
 おふゆは、後に廻って夫の羽織の襟などをかえしながらおせいを見、肩をすくめて笑った。
 道を歩きながらも、小関が、まるで自分の財産の自慢
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