、建物の周囲も、あの雑沓の中から来ると嘘のようにひっそりしているのである。
心付いて、おせいは四辺《あたり》を見廻した。そして、小声で、
「ここがそうなの?」
と、夫に訊こうとした時、黙って歩いていた小関が、急に話し出した。
「まあ、ここいら辺からぼつぼつ中心に向うんですがね……さびれていますねえ」
彼は、健介達に、賑いの絶頂でない処を見せるのが如何にも残念そうに呟いた。
「然し、どうです? なかなか堂々たるもんでしょう? 近頃すっかり模様は変りましたがね……どうです通り抜けて見ようじゃあありませんか」
後につき、おせいは我知らず眼を瞠《みは》りながら、とある格子の内側に歩み込んだ。
一目見たときはまるで生花《いけばな》の展覧会かなぞのように思われる。手摺をつけ、幕をしぼりあげ、正面に、幾つも幾つも大きな女の写真を並べて懸けた下には、立派な木札に、黒々と値段を書いたものが出してある。――
言葉もなく見廻し、彼女は不可解な感に打れた。
木炭か鉛筆かで、こすって描いたように艶のない、どれもこれも同じような女の顔は、むやみに明るい燈火の下で、まるで幽霊のように見える。
隅の方に台を控えて、ぽっつりと男が一人いるきり、物を云う者とてもない中に、人とも思えない、たくさんの女の顔が、灰色と際立った白とで、くすみ、無表情に、凝《じ》っとこちらを眺めているのである。
おせいは見ていると無気味にさえなった。ここに生きた人間がいることさえも疑われて来るようだ。この陳列写真の一重の彼方を覗いたら、何にもないがらん洞が風に吹かれて拡がっているかとも感じられる。しかも、麗々と明るみにさらされた金高を示す文字を見ると、彼女は、額が痛むほど、何か本能的な痛苦を感じずにはいられないのである。おせいは、話に聞き、頭に描いていた吉原という遊蕩地が、こんなであろうとは知らなかった。もっと華やかな、情痴的な何物かが通行人にさえうつつをぬかせる雰囲気を作っているのかと思っていた。然し、これを見て、たとえ情慾でも起せる人間があるということは、彼女に不思議なほどに感じられる。
おせいは、奇怪な、信じられない心持を抱いて、先に立ち、黙ってそこを出た。大通の左右には、絶間なく小路があり、そのまた左右がひしひし、同様な、きらつく、然し人気ない建物で詰められている。
行っても行ってもつきない。いやになるほど、同じような建物が、余りきらきら、余り寂しく立っている。――おせいが、深く黙り込んでしまったせいか、小関はつぎ穂がなさそうに、格子の間を出たり入ったりして、先に立った。
或るところでは、まだやっとはたち位の学生が、わざと顔を隠すように背を丸めて台の男と差し向いながら、何かひそひそ囁き合っている。
或るところでは、独りで入って行った小関を見つけて、男が、いきなり、低く早口に、
「あ。旦那、ちょいと、ちょいと、好い話」
と呼び止めながら、扇を持った手を延して中腰になる。おせいが一緒だとは気が付かず、何か云おうと唇まで出かかった言葉を、ふいと飲み込んで、そのまま素知らぬ顔をする男もある。
行くうちに、彼女は何となく腹立たしいような気分になって来た。
あの男達は、一体どんな心持であんなことをやっているのだろう。胸位まで来る台を控え、パチパチと扇を鳴らし、或る者はすっかり禿げた頭を燈火に照しながら、眼を動して、何か、絶えず求め漁っている。恐らく家があり、妻子がある、あれも夫であり父親であるのかと思うと、おせいは訳の分らない辛い心地がした。
またこの特殊な世界の生活を、倫理上の「問題」とし、同性の「問題」として、考え論究している種々な女の人々は、自分の眼で、この格子と、絵姿と、奇妙な静寂を見た時、どんな心持に打れたのだろう。
おせいには、これらの光景から、何か纏り、組織立った考えが照り返して来るのは、二分も三分も、或は一日も後のことらしく感じられた。
何か読んだものや、聞いたことから、頭で拵えた観念を抱いて来ない以上、素直な心で、この有様を見たら、先ず、これが真実、自分と同じ心を持ち、自分と同じ肉体を持った女、人間に、何か係わったことなのかと怪しみ疑わずにはいられない気がするのではないだろうか。彼女には、実に、解し得ないことと感じられる。しかも、心全体には、無言の裡に、暗い悲しい、憤おろしい迄の激情が迫って来るのである。
理屈でなく、議論でなく、おせいは、巨人のように力のある手を延して、一揉みに、この煌《きら》ついた、しらを切った建物を揉み潰してしまいたい心地がした。
壊れた屋根板を撥《は》ね、折れ倒れた鉄棒を掘り除けたら、中から、始めて、人らしい、涙を流す、自分達の仲間が出て来るだろう。
いくら考えても、嘘だかほんとだか判らないこんな穢い絵姿ではな
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