五月の空
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)犇々《ひしひし》と

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「(啗−口)+炎」、第3水準1−87−64]
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 一九二二年五月
 或午後、机に向って居ると、私の心に、突然、或諧調のある言葉が、感情につれて湧き上った。
 丁度、或なおしものの小説を始めようかとして居、巧く運ばないので苦しかったので、うれしく其を書きしるした。
 後、折々、そう云う現象が起る。
 純粋に云って、詩と云うもののカテゴリーに入るか、如何《ど》うか、兎に角私にとっては、斯様な形式で書く唯一のものだ――私の詩と云える。
 段々、かたくなく文字が流れ出す快感を覚える。何処まで、形式、内容が発達して行くか、
 私にとっては、頭のためにも、感情のためにも、よい余技を見出した。

  五月一日

あらゆるものが、さっと芽ぐみ、
何と云う 春だ!
自分の心は、此二十四歳の女の心は
知らない憧憬に満ち、
息つき、きれぎれとなり
しきりに何処へか、飛ぼうとする。
一つ処に落付かず
ああ 木の芽。 陽の光。
苦しい迄に 胸はふくれて来る。

     *

心が響に満ち 音律に顫えて来ると
詩の作法は知らぬ自分も、うたをうたいたく思う。
何と表したらよいか 此の心持
どう云うのだろう 斯う云う 優しい 寂しい、あこがれの心は。
小説を書く自分は、辛くなり、
原稿紙をかなぐりのけて 眼を動かす。
見出そうとするように
此心を、さながらに写す 言葉か、ものかを
見出そうとするように。

     *

それは、あの人の詩はよい。
優雅だ。 実に驚くべき言葉のケンラン。
けれども。――
そうです。あの方のも、素敵ですね。
放胆なイマジネーション。ファンタジア アラ……
然し。――私の心は、どうしても満足しない。
とん とん、と、胸に轟くこの響が、
あれ等の裡に聴えましょうか。
迫り、泣かせ、圧倒するリズムが
あれから浸透して来ますか?
ああ、私の望むもの、私の愛すもの
其は、我裡からのみ湧き立って来るものだ。
静に燃え、忽ちぱっと※[#「(啗−口)+炎」、第3水準1−87−64]をあげ、
やがて ほのかに 四辺を照す。

     *

新芽をふいた世界は
鋭角になり 緑になり
平面に延る人間の心を 擾乱する。
夜中の雨に じっとりと濡れ
膨らんだ細葉を 擡げ 巻き立ち
陽を吸う苔を見よ。音が聴えそうだ。
又は勁く、叢れ、さっと若葉を拡げた八つ手、
旺盛な精力の感、無意識に震える情慾の感じ。
電車の音、自動車の疾走
戸外は音響に充ち
少年は、頻りに口笛を吹く。
静謐な家の中 机に向い
自分は、我と我がひろき額、髪を撫でこする。

     *

心に興が満ちた時
お前は、何でもするがよい。
絵を描け、強いタッチで、グレコのように、絵を描け。
歌も唱え、
美しきマイ、アイディールをきいて、泣くお前。
静かな月光が地に揺れ、
優しい魂が心を誘い 愛撫する時
愛やよろこびが、手足を動かさずには置かないだろう、
あこがれを追う手、
過ぎて行く影を追う足。
バクストは、それに、衣裳をかくのだ。

     *

今日は 何と云う日だ
自分が[#「自分が」に傍点]詩を書き、
一つ二つ 詩を書き
まだあきたらず 三つ四つ
詩を書く。――

妻と云う位置、仕事という繋制
皆自分から とけ去って
此処に 只、一人 裸形の女がある。

歌おうか、踊ろうか
 ギリシアの少女のように
 何故! 手脚は靭《しな》やかに舞わないのか

狭い日本、小さい社会
心は あまりに拡がる。
素朴に 感激を表わそうとする女
裸形の 人間 はなにか。

  五月三日

芸術の 真の 畏ろしさ
心に 真実 愛が満ち
信に安らいだ時
私は始めて 物も書ける。
働くことも愉快になる
女中なにか。何!
物が真個に書ける時
私は、うれしく働ける。
生きることの ありがたさ。
何故いつも、斯様にはあらぬか
        わが、こころ。

     *

あわれな、わが、こころ、
歓びに躍り
悲しみに打しおれ
いつも揺れる、波の小舟。

高く耀き 照る日のように崇高に
どうしていつもなれないだろう。
あまりの大望なのでしょうか?
神様。

     *

自分は 始め 天才かと思った。
   あわれ あわれ は……。
然し、その夢も 醒めた。 有難い。
今は、一片の草のように
つつましく、愉しく、熱心に芸術に向って居れば。安らえる。

  発育

始めに 本能の憤りが 来
次に 道徳 正義の感が起る。
やがて そろそろ 耀きの実体が見え

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