憧憬と帰依とが 全心を占める。
真の芸術への直覚。
 然し、此時多くの 友達と、所謂読者はお前を離れるだろう
彼等には あまり ひためんだから
あんまり 掴む あぶはち、とんぼ が
        見えないから。

     *

勢こんで ものを書き
非常に おなかが 空いた。
何か食べたいな。――然し良人はまだ帰らない。――
 自分は、座って サイドボールドの中を覗き
 美しい柳の描いてある 水なし飴を一つつまみ
 ひとりで、部屋を見廻し 味わう。
考えて見ると――貴女はそう思いませんか?
人間そのものが芸術であると、思う。
音楽や、絵や、建築、文学が、皆
我々の、皮膚の下、髪の裡、眼の底にある。
それ故、時に 魂が熱し鳴りひびき
どうにも 仕方のない時が
     あるのではありますまいか。
歌のうたえるものはよし
線で 宇宙を抱けるもの、文字を愛せるものはよい。
何にも、心を注ぐすべない人が
盲《めくら》滅法に 恋をする。
   夢中になって する――
その心根は、いじらしい。

     *

或時には
余り朗らかとも云えぬ情慾を混えた夫婦の
        愛を経験して見ると
親子の愛
まして 自分と父との仲にあるような 父親の
愛《いつ》くしみの微妙さを 思う。

いささかの陰翳《かげ》もなく
調和し 活力を増し
箇性を のどかに 発育させる。

犇々《ひしひし》と思い出が迫り
父のなつかしさ!
四つ五つの 我にかえる――。

     *

心に 満ち充ちる愛も
金がないので 表し得ない時のあるのを
又その時の如何に多いかを
此頃知り
憂いを覚ゆ。

父の上を思い、いろいろの なぐさめや悦びを与えたい。――
それは、勿論 もの[#「もの」に傍点]ばかりが
我心のまことを告げは しない。
けれども、ものも[#「ものも」に傍点] 入用《い》るときがある。

春先 一緒に 二日三日の旅もしたい。
子供の時から愛され 又我も愛し
然し 我ままで、勝手に振舞った過去を思い
ゆっくり、よい伴れになって
一生には せめて 一二度 旅がしたい。

此思いは、何で晴らせる?
どうぞ 自分に僅かの金がたまり
のどかに 父と旅行出来るように、
どうぞ それまで 父上
たっしゃで 元気で
今の もうちゃまで いらしって下さい。

  五月二十六日

わが心は 深き 井戸
くめど くめど 水はつきず――
つきぬ思い 湧き出ずる。

そをくみあげる
小さな一つの 釣瓶
昼はひねもす 夜はよもすがら
ささやかに 軋り まわれど
水は つきず
わが おもい 絶ゆることなし。

或時は、疲れたる手を止《とど》め
瞳遠き彼方を見る。
美しい五月の自然
白雲の湧く空のすがた
ほのかに 芳香をまき
少女のように咲きみつる薔薇花。
されど ときには 指もたゆく
心もなえて 足もとを見る
あわれ わが井戸の 小車
いつも いつも くるめくと。

くるめく 井戸の小車
天をうつす 底ひの 水
滾々《こんこん》と湧き満ち ささやかになり
   われを待つ。

  愛らしいわが原稿紙(25th May)

愛らしいわが 原稿紙
おまえが、白紙に青の罫を持ち
その罫を
一面の文字で埋めて居るのを見ると
私の心はおどる。
朝、さっぱりと拭き浄められたマホガニー色の机の上で、
又は、輝やいた日の午後
北向の障子の棧が
単純な 日本の四角を浮上らせる傍に。

八畳の 部屋に入り
縁に出ようと 机のわきを過る時
ちらりと見る お前の姿は
何と云う楽しさだろう。
私は、十九の恋人のように
そっと眼の隅から、お前を見
思い切れずに 再 見なおし
終には 牽かれて その前に腰を下して仕舞う。
あかず眺め、眺め
心は故郷《ふるさと》に戻ったような安息を覚えるのだ。

ああ、わが愛らしい原稿紙
いつも、お前の 懐しい乳白色の面の上に
穏やかに遮られた北の日光を漂わせよ
夜は、麗わしい台ランプの
穏密な緑色のかげを落して
われとともに
うたい、なげき、悦びにおどれ。

愛らしい 愛らしい わたしの
 原稿紙。

  同じ題

何と云う すなおな心を持つお前か
私が泣けば、お前の面も曇らずには居ない。
私が歓びに打ち震え 見つめれば
おなじ悦びに 眼を瞠り 微笑む。
夜のとも
昼のとも そして わが一生の友、原稿紙。

一ひら 一ひら、お前を、
市井の文具店の蔵から迎えよせ
私の周囲には、次第に多くのまといが出来た。
それ等の声に耳を傾け
私も亦 人に洩れぬ 私語《ささやき》で 物語り
見えぬ友情
絶ち難い 愛が 二人の胸を繋ぐ。

私は、此一生を
お前の 愛に捧げよう、
我生をその愛に献じ
魂をこめて生命を伝えたら
生存が お前の奥に埋もれ切った時
お前らは 私の囲りで 素晴らしい
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