体文学、中間小説の氾濫に毒されている日本の人民の文化的条件の中で趙樹理の作品のもつ意味とは、同じであるにありようもないのが実際であろう。小型の小説、寓話的な小説、よんでもらってきく人にも、たのしい小説。きょうの出来ごとがもう小さい小説となって出るような小説。それらすべてがあってよいし、必要でもある。しかしこのことは、日本の民主主義文学で趙樹理のような作品だけがかかれなければならず、そのほかは小ブルジョア的な作品であるというような結論はみちびきだされないのである。日本の労働者階級が民主革命の途上で自身の文学の成果として造型してゆかなければならない諸階級との関係は、多くの複雑さを必要とするものである。
政治の優位性の問題は、今日まで四年間の苦しい経験によって、イデオロギーの問題から、創作の現実過程、評価の実際の基礎となってきた。プロレタリア文学運動の初期に、芸術と政治・政治の優位性が提起された時代には、政治の優位性の素朴な理解は、直接その論を主張した人々の実践に反映してよい結果も悪い結果もその人たちによって刈りとられた。けれどもこんにち、政党、組合その他の大衆団体がそれぞれの面で文化・文
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