のアミがそれだなどと言う人があったら、失礼ながら私はひっくりかえって笑わなければならぬ云々」「戦争を自分のなま身でもって生き、通過して来た上で、作家としての自我と仕事を確立して行こうとしている人間」の言葉として、「田村が作家として意図しているところは、なっとく出来るし、なっとくしてやらなければならぬ。しかしあとがいけない」と田村の独善的な自己肯定にふれるならば、田村泰次郎一派の人々のいくらか文壇たぬき御殿めいた生きかたそのものや、そのことにおいていわれている文学的意図は、はったりに堕している事実や一方で彼がファシズムに反対し平和を守る側に立っていることでは大岡昇平の文学や「顔の中の赤い月」(野間宏)、「にせきちがい」(浜田矯太郎)とどんな実際関係にいるかという、花形一つの身にあつまっている矛盾、分裂の諸関係を彼のためにも、読者のためにも客観的に整理して示さなければならないのではなかろうか。
だが、「誰のアミが現代のアクタモクタをホントにしゃくいあげる[#「ホントにしゃくいあげる」に傍点]ことができるだろう?」(傍点筆者)という、私小説ではない新しい文学への要求は、その中に、新しい社会
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