の経歴が文学史的に細叙されているにつけ、つつしんでいる作者の描写が精密であればあるほど、そこにゴーゴリ風のあじわいが湧いて、読者は、全情景、登場人物などのすべてが、自分たちと同じ人間としての等身大をもっていない一つの世界のできごとを見ている感じにとらえられる。みんな小さく、いやにくっきり、ぎくしゃくかしこまっているなかに広津和郎が立って話しはじめると、急にそれは並の人間の体と声とに感じられる。この変化も宇野浩二の描写力のはからざる効果である。
若い評論家の藤川徹至はこの「文学者御前会議」を『アカハタ』の上で粗末に批難した。窪川鶴次郎の「偽証の文学」では、宇野浩二のリアリズムの矛盾をついている。その矛盾をふくみつつも、林房雄が、「文学者御前会議」をもって宇野浩二の私小説作家の末路としたのは、なおそのリアリズムに林房雄の欲しないゴーゴリ的な日本の人生の現実が造形されているからにほかならない。|本来の日本《ジャパン・プロパア》のユーモラスであり腹立たしい人生が見せられたからである。佐藤春夫の「人間天皇の微笑」に対して林房雄は罵らないだろう。これらにはいかなる人生もないから。いわゆるふちの飾りしかないのだから。
文学らしい言葉で云われている林房雄のみことのり[#「みことのり」に傍点]に、だまって肯く英文学者を前において、彼は更に首相の息子吉田健一の「英国の文学」を、推薦している。吉田健一は「イギリスの文学はイギリス人の生活のふち飾りとして、レースの如く美しくあらわれて来るという意味のことをかいていた。ところが、日本の私小説作家で、人生の方が文学のふち飾りでライフ・プロパア(本来の人生)が無視されている。僕が日本の私小説作家に大いに反対するのはそこなんです」
ステファン・ツワイクは伝記文学者として多くの仕事をしたが、彼の代表作「三人の巨匠」の中でもディケンズ研究は、最も重く評価されている。ディケンズの天才は、イギリスのみならず世界文学のほこりであるけれども、あれほどの彼の大天才もイギリス流の現実への妥協で終ったために遂に大成するに到れなかった、と云っている。そして、イギリスの独特な資本主義発達の過程はシェクスピアを生んだ環境そのものでディケンズの天才の羽根をおらせた。ゴールスワージーは、魅力ある作家だったけれども、彼の文学にも終点は「人生はこうしたものだ」“Life
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