促進するためにもと、世界人権宣言に改めて深い関心をよせている。
一九四九年の社会政治現象に対してこのような態度を示している中野好夫が、どうして、商業化している文壇的な創作月評座談会などで、弱気にならずにいられないのだろう。誰がよんでも、護持派の文学論法であり、それは彼の戦争協力、「大人の文学」論、人間と文学との基本的権利の抹殺行動につながる林房雄の論法に、だまって肯くという態度を示さなければならないのだろう。林房雄は、『群像』十二月の座談会で宇野浩二の「文学者御前会議」にふれている。
「一般に日本の私小説作家というものは、文学のために人生をすてている。だから女房のことでも、昔の借金のことでも、何でも文学にして売る。一番ひどいのは宇野浩二の『文学御前会議』で、あれは文学のために人生をすてた大作家の末路だ。」(以下略)「文学のために人生をすてているんだから、その致命的なものは、どうにもならない。中野さん、あなたはこれからも批評家として行くわけですが、このことは重要なことですよ」
中野 ……(肯く)
「文学者御前会議」につれて林が人生と云っているものが、まともな人生を意味するなら、宇野浩二のあの文章は、日本人の人生そのものに関して圧巻であった。昔、宇野浩二が書いた小説に、菊富士ホテルの内庭で、わからない言葉で互によんだり、喋ったりしながら右往左往しているロシアの小人《こびと》たちの旅芸人の一座を描いたものがあった。植込みや泉水のある庭のあちこちを動いたり、その庭に向っている縁側を男や女の小人《こびと》が考えたり、話したりして、彼らの人生をまじめにいそしんでいる姿が、宇野浩二一流の描写力で哀れにもユーモアにみちて描かれていた。
「文学者御前会議」は、宇野浩二のその小説をほうふつ[#「ほうふつ」に傍点]させる。フランス文学者であり、アンティ・ファシストであり、アヴァンギャルドである豊島与志雄が、時代ばなれしたフロックコートの裾をひるがえし、シルクハットはなしで電車にのる描写から、すでにペソスがにじんでいる。行きついた場面では、すべての事のはこびが活人形《いきにんぎょう》を動かすようである。他人と比較されることのない風変りな日常習慣のうちで、人柄のある聰明さにかかわらず奇矯な癖をもっている天皇の動作、きいた風な宮のとりなし。かしこまってそこに連っている歌人・文学者たち一人一人
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