まず文学そのものとして狗肉である現在のジャーナリズムへの商品を一応ひっこめることから実行されるべきこと。大衆の運命は性の欲望と肉体の好奇心のうちだけで存在しているのではないということを認識すること。精神のよりどころを与えるというならば、作者自身が、従順な奴隷八千五百万とよばれている人口のうちにこめられていることを自覚して、ファシズムと戦争挑発に反対署名し、全面講和要求に署名したとしても、ジャーナリズムを通して強力にすすめられているエロティシズムの愚民政策の選手であることの矛盾について、はっきり日本の人民のために指摘してもよかったろう。
それが不可能であったということには、一九四九年において批評家自身、社会的問題と文学的問題とを統一的に把握しきらなかったという事実を告げることであると思う。
中野好夫は『新日本文学』十二月号に、一九四九年を次のように回顧している。
「過去一年をふりかえってみて私としてもっとも強い関心を感じることは、個々の法令、個々の規則ということよりも、それらの禁圧的法令、規則の脊後を通じて一貫している最近の政治動向そのものについてである。」「ここ一年以来の民自党政府のやり方には、もはや反共のラインをこえて、人間としての権利そのものへの侵犯としかみえないものがあらわれている。」「最近は、私自身の関するせまい職域の限りでも、いわゆるレッド・マークとか、学問の自由というような新しい問題まで発生してきている。」「学問の自由を剥奪することがいかに危険なことであるかは、先年来すでに苦しい経験ずみであるにもかかわらず、今日またしてもこのような問題がくりかえされなければならないということは、正直にいって情ないとでもいうより他はない。」「しかし問題は実はこの具体的事実の一つにあるのではないのである。このような、わかりきった情ない問題を、その一尖端として水面に露出させるところの見えない水面下の暗礁こそ問題なのである。」「だがわたしは絶望はしない。もしわれわれが本当に人間として基本的なものだけは守り通すという決意をもち、それが実践のためには牢獄と死をさえ辞せないだけの強い意志だけあれば、必ず我々はこのようなお調子にのった今日の右翼攻勢を粉砕しうる時はくる。」しかし、「戦術的には従来の共産党諸氏のやりかたには、与し得ない」として、左右両翼の反作用の時を、袖手傍観しないで
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