のなかでは、文学の本質がわかっている文学者として自身をあらわそうとしている。そのために、こんにちの文学の現象はいっそう混乱して、商業ジャーナリズムの大半を占め、紙数をより多く占めて発言している中間作家、風俗作家の文学論が、さながら文学論であるかのようにあらわれている。
 私小説を否定しながら、純文学[#「純文学」に傍点]を語るこれらの人々は、広津和郎の「ひさとその女友達」に対する林房雄の評を見てもわかるように、政治臭[#「政治臭」に傍点]をきらうことで共通している。中間小説が、社会小説であり得ないこの派の作家たちの本質に立って。
 しかしながら、そのまた他の一面ではファシズムに反対し、戦争挑発をしりぞけるための「知識人の会」に名をつらね、作家そのものの道に立って平和を守ろうとする川端康成の提案を支持してもいるのである。
 高見順との対談で丸山真男が「物質的な面ではそうですけれども(文士も偉くなった)社会的な価値とか、役割とかではやはりアウト・ロウ的でしょう」と云い、高見順がそれを肯定して「全然アウト・ロウです」と答えているのは、高見順にとっては自然な答えであったにしろ、中間小説作家たちの現実でもないし、実感でもないだろう。社会性を失った「純文学」とよばれる創作方法に対して、林房雄、富田常雄を筆頭とする中間小説の作家たちは、「純文学とか大衆文学とかいう色わけがなくなってしまうのが当然」であるとして、現在自分たちの書いている文学が「大衆の生活にたのしみを与え、豊かにし、また生きてゆく上でのなにか精神のよりどころのようなものを提供するこそ」目標であり「『罪と罰』『ボ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァリー夫人』『女の一生』『凱旋門』に通じる道がひらけるにちがいないと確信する」人々である。これらの人々に新聞社は、講和問題に関するアンケートなどもおくっている。『読売新聞』の集めた範囲で作家たちの答えは全面講和の要求だった。
 批評家は、一九四九年のこの錯雑混沌とした文学と文学者のありように対して、どうして、ただ押しまくられているしかなかったのだろうか。「また、いつかはそれをやりとげないでは(「罪と罰」やその他の作品に通じる道がひらける、ということ)結局、羊頭をかかげて狗肉を売るそしりをまぬかれないだろう」(文芸家協会編『現代小説代表選集』第五――田村泰次郎)というのなら、
前へ 次へ
全27ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング