についている短剣が鞘ばかりになっているのを見出した。
 彼は、兵等に命じて剣を探させた。剣は、血の曇もつかず、ガワの頭の方に落ちていた。それと一緒に、図らず一本の棍棒を草の間から拾いあげた。それが、ツランの物でないのが一目でわかった。握りに滑らないための刻がついてい、堅いつるつるした木の根っこのようなもので出来ている。それを見ると、兵等は俄に陽気に噪ぎ出した。そして、スーラーブが検べ終ると、我勝ちに受取っては珍らしそうに吟味した。或る者は片手に下げて、仔細らしく重みをはかった。剽軽《ひょうきん》な髭面男は、嬉しそうに、仲間をそれで脅しながら「ツランの小人、覚悟しろ! とは云わなかったとさ!」とふざけた。皆はどっと笑った。彼等は黙って懼れた悪魔の仕業でないことが確かになった。ガワは可哀そうだ。が、何! イランなら思い知れ、讐《かたき》はすぐ打ってやるという気持が、一同に流れ出したのであった。

        三十四

 スーラーブは、はっきりその雰囲気を感じた。彼は、一同を鼓舞するために、勇ましい言葉で、ガワの命を来るべき今日の合戦に償うことを誓った。そして、埋葬に関して必要な二三の注意を与え、彼は天幕に戻った。天幕の中では、フーマン、バーマンなどが、簡単な朝食を摂りながら頻りに開戦準備の相談をしていた。スーラーブも卓についた。食物をかみながら、彼の心は、重要な二人の相談の方には向かず、やや陰鬱に考え沈んだ。スーラーブは、迷信深い兵卒等のように、ガワが仮にも悪魔に殺されたなどということは思いもしなかった。然し、殺された者がガワであったことが彼に何かの凶兆らしいいやな予感を持たせた。ガワは、もう数年、スーラーブの手廻りに仕えた侍童であった。それが、幸先よかるべき今朝、死んで見出されたとは何事だろう。これは、彼自身の身代りになったという風にとろうとすれば、とれないことはなかった。そう解釈した方がよいのだろう。けれども、スーラーブには、もう一つ昨夜から気になりきっていることがあった。それは、イラン軍に、父ルスタムが加わっているや否やということであった。
 イランの全軍が、広い曠野の面で展開し、彼方此方に、天幕小屋を組立てて行く間、スーラーブは、幾度と知れずアフラシャブの附け人達を高地の端まで連れ出した。一つ新しい天幕が張られるごとに、ルスタムではないか、或はルスタムの隊らしいものは見当らないかと尋ねた。彼等は、形式一遍の答えをした。スーラーブが相手の顔をじっと見ずにいられない冷淡さ、底意でもあるらしい無頓着さが顕されたのであった。結局昨日は解らずしまいであった。彼等の腹を考えれば、今再びきいたところで正直に云ってはくれまい。スーラーブは、或る憎悪を感じて、平然と協議を凝している二人のツラン将を視た。彼が、鋭い眼を向けると、腰架に向い合っている彼等は眼の隅でちらりとそれを認め、傍から口を利かせまいため、一層熱心らしく胸をかがめて話しに打ち込む風をする。激しい感情がこみあげて来、スーラーブは、ふいと天幕を出た。
 もう朝日も高く昇った。高地の裏から疎らな樹林をとおして射す澄んだ日光で、草の葉の露はかがやき、絶間なく動き廻る兵卒等の腰に短剣のつかがキラキラした。樹木の間につながれて夜を過した馬がつややかな背やたてがみに日を受け、楽しそうに鼻を鳴しながら、古い落葉の敷いた地を掻く。歩き廻っているうちに、スーラーブの頭に閃くように或ることが思い出された。彼は、急に活々した挙止で、丁度糧秣の袋を抱えて来かかった一人の兵卒を呼びとめた。「おい。――貴様、イランの捕虜の居処を知っているか?」男は、少し妙な眼でスーラーブの顔を見、ざらざらした声で得意げに答えた。
「知っていますどころか。ゆうべわしらの隊で、奴を揶揄《からか》って大笑いしました」
「すぐ此処へつれて来てくれ」スーラーブは、抱えている糧秣に目をとめた。
「いいからそれは置いて行って来い。私が分けてやる」
 男は、そこへ袋を下し、左脚を引ずるようにして陣の後方に去った。スーラーブは、左手で重い袋を引ぱり、樹木の根かたに置いてある箱に、なかの麦粒をしゃくい出した。

        三十五

 間もなく、乾ききった厚い木片がぶつかり合うような、カタカタという音が、スーラーブの背後でした。
「連れて参りました」捕虜の若いイラン人は、微塵《みじん》の愛嬌もない表情で、振返ったスーラーブを見た。纏布を半分ずらせて、頭の負傷を包んでいた。横から、短く髪の毛が延びかかった頭が覗いている様子、薄い、汚れ切った上衣が肩で破れて体にかかっている有様。立派な体格で、足枷さえそんなに惨めなものらしくは見えなかった。眇《すがめ》の男は、捕虜の穢らしい滑稽さを誇張するように、傍から相手の腕をつっつき、片言のイラン訛で云った。
「大将、わが大将、――礼」そして、自分のツランの礼の形をして見せた。
 スーラーブは、厳しく手を振って、眇の男を追のけた。彼は先に立って歩み出した。
「此方に来い」彼等は、足枷の許す緩い歩調で高地の出端まで来た。其処からは、朝の光の海の裡に一目でイラン方の陣が瞰下せた。幾つもの天幕が起伏した間に平地の上を行き来している兵卒の姿までくッきり見えた。スーラーブは、暫く黙って眺めた後、捕虜に云った。
「卿に尋きたいのは、どの天幕が誰のかということだ。あの大きな旗を立てたのは、イランの王の天幕か?」捕虜は、スーラーブの横に、一歩ほどしざって佇んだ。彼は、顔を正面に向けたまま、まるで感動を示さない調子で答えた。
「そうです」
「あの、黒い鞁天幕は? ずっと右手」
 捕虜は、頸を動かさず、瞳だけ其方にやった。
「――ギーウ」
 スーラーブは、思わず、「ふむ」と満足の鼻息を洩し、顔が赧らむのを感じた。彼は、こんなに素直に捕虜が云ってくれるだろうとは夢にも思っていなかった。彼の希いはもう一つで満されるところまで来た。
 スーラーブは、速くなった鼓動が自分だけにしか感じられないのを幸に思いながら、最後の質問を出した。
「左の端にもう一つ大天幕がある。あれは誰のだ?」
「――……」
 スーラーブは、答えがないので捕虜の顔を見た。男は、相変らず正面を向いて、スーラーブの声が聴えなかったと思われる様子だ。スーラーブは、捕虜の顔付に注意しながら、もう一遍、問を繰返した。
「あの左の端の天幕は誰のだ?」
 スーラーブの言葉が終るか終らないのに捕虜は、ずっぱり云った。
「知りません!」
 スーラーブは、覚えずむらむらとした。男の調子はひどく不誠実で、この問だけにはこう答えると、宛然前から定めていたように響いたのであった。スーラーブは、燃えるような眼付で捕虜を睨みつけた。
「よく視ろ!」
 やっと、失望と憤怒とを制し、彼は云った。
「左手、ずっと左の端だ。誰のだ? 知らぬ筈はない」
「――……」
「誰のだというのに!」
 スーラーブは、ここぞという処で裏切られた口惜しさに、相手を張り倒したいほどの衝動にかられた。

        三十六

 自分が知りたいのは、狙ってルスタムを殺そうためではない。正反対だ。知らしてさえくれたら、今日これからの手合せに、血も流さず、永年、遠くから牽き合った父と子が対面出来る。天と地とが凱歌をあげる歓びが実現するのだ。スーラーブは、我知らず宥《なだ》めるような調子になった。
「卿は二つ、正直に云った。一つだけ知らないというのは信ぜられぬ。云ってくれ。――決して悪いことはないのだ。――あの左の方、大きな天幕は誰のだ?」
 イランの捕虜は頑固に呟いた。
「知りません。――何もしるしがない」
 成程――。スーラーブは窮した。実際その天幕は無標であった。色も形も違ったところがなく、唯他のものより大きいのが特徴なのだ。スーラーブは、捕虜が尤も至極な口実を捕えたことをいまいましく悲しく感じた。捕虜に先手を打たれてしまった。もう、どんな自分の言葉も、切実な強さを持ち得ないのを彼は明かに知った。彼に遺されている一つの道は、優者らしい暴虐さで、云えない捕虜を攻め立てることばかりだ。そんなことは彼に出来ることでなかった。スーラーブは、腕組をし、脚を開いて立ち、石のように黙り込んだ。頭の上で、太陽は微かな音を立てながら、天の真中へ進んで来るようであった。陣地には、今にも、開戦準備の角笛が鳴り渡りそうであった。彼に遺されている時間は、ほんの一刻だ。その貴重な暫くが、自分の運命には些の恩沢も与えようとせず、冷然と、ついそこを通りすぎてしまうのか。スーラーブは、ふけた顔付きになり、逞しい若い胸の奥で身ぶるいをした。暗い眼で、しげしげと無標の天幕を瞰渡した。その間に、捕虜は、私かに彼を偸見た。男は、凡そ見当はついていたのに癪で真直云えなかったのである。なぐられないのが、男にとっては意外であった。そして、スーラーブの顔付を見たら、彼の感情は動いた。何かまるで淋しそうな色が、スーラーブの体全体に満ちていた。正面を向いたぎりで、男は、同情に似た静かな光を眼に泛べたが、スーラーブが、彼を見そうにすると、はっと彼の顔は変った。スーラーブは、顎をつき出すように、太い頸を牡牛のように構えている捕虜をじろりと視た。そして、手を振って、彼方に行けという合図をした。捕虜はその方を向き、スーラーブの側を通って陣の奥へと歩き出した。カタ、カタ、木の足枷が鳴った。スーラーブが、高地の端でこんな時を費していたうちに、陣の後方では、着々、戦端を開く準備が進められた。大天幕を、足早に多くの兵が出入し、伝令が、隊から隊の間を駛《はし》った。亢奮した空気が、ツランの陣中にざわめき始めた。スーラーブをさがして、一人の兵卒が馳けて来た。
「万端用意が整いました。御命令を待つと申せということです」
 スーラーブは、黙ってうなずいた。イラン方でも、先刻から統一ある運動が開始されていた。二人ばかり騎馬の戦士が、活気ある様子で彼方此方騎り廻す前後に武器を執った兵卒が、そろそろ隊列を整えかけていた。それ等の黒い姿や馬の蹄の下から時々ぱっぱっと、白い砂埃が蹴立てられるのまで、総て小さく手にとるように見える。

        三十七

 ツランの全軍の三分の一が、四列縦隊で高地を降り始めた。スーラーブは、栗毛の馬に騎って兵等の進行を見守った。遠くの方は、見わけのつかない揺れる頭の上下する流れに見えた。それが一種重い響を伴って迫って来彼の目の前を通り過ぎる瞬間、一人一人の顔つきが、奇妙に鋭い印象でスーラーブの眼に写った。或る者は髭ばかりのように、或る者は、じっと彼を瞶《みつ》めた二つの眼ばかりの者のように。すぐ、また後から別な、特殊な表情の顔が続いた。前の印象は消えた。これを見ようとする間に忽ち行きすぎた。次へ、次へ。そして、兵等は黒い、緩慢な瀧のように絶間なく降りて行く。平地に着いた先頭部隊は、すぐ横列に開展し始めた。スーラーブは、最後に高地を降る一隊と馬を進め、平地に出ると、数十歩駈けさせ、軍の最前列に出た。イラン軍とは、僅に百ザレほどの間隔しかなかった。彼のところからは、彼方の兵卒の一つ一つの顔まで見えた。彼等は、比較的平静な弓形の濃い眉が陰気につながった顔で、珍らしそうに、獣でも見るように、ツラン方を眺めている。小走りに駈けながら、隊の後方につこうとしている者共の、じろじろ此方を見る顔にも同じ表情があった。
 スーラーブは、馬をかえし、自分の軍列を一廻りした。左翼の端れにはフーマンが黒い馬の手綱を引きしめながら、何か、低い、激しい声で、傍の者に命じていた。右翼の端にバーマンが、凝っと正面を見て、あし毛の馬に騎っていた。彼はスーラーブを認めると、顔付もかえず、義務的な風でちょっと右手を挙げた。用意はよろしいというのだ。スーラーブは、元の場所に戻った。イラン方でも仕舞いのざわめきが鎮まった。何ともいえない静けさが張り切った。太陽は一息つき、一きわきららかに両軍の頭上に照り渡った。――
 すると、ツラン勢の後方から、心臓をつき上げるように、一打ち、強い羯鼓
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