た棍棒をとりあげた。そして、山地を歩きつけた人間の、根気よいむらのない歩調で、ツランの陣地へ向って歩き出した。篝火が彼を遂に誘い出したのであった。
三十
ルスタムは、目立たない、足の裏の柔かい獣のように、音もなく高地の一角から、ツランの陣に忍び込んだ。彼は幾度もの経験で、ちっとも行動をいそがず、注意深く自分の体を扱った。篝火の近くをさけ、出来るだけ眠っている兵のかげへかげへと廻り、這うように中央の大天幕に近づくと、彼は暫く四辺の様子を窺った。遠くから見えた燃火は、丁度天幕の入口に近く燃《た》かれていた。
風のない夜で、焔が真直に立昇る囲りに、ざっと十人ばかり武装を調えた男が胡坐を組んで坐っていた。ルスタムの隠れ場所から、正面に焔を浴びた髭の濃い男の顔が見えた。彼等は、皆黙って、折々枝切れで火の工合をなおしたり、戎衣《じゅうい》の間から何か出して、隣のものにやり、自分でもぽつぽつ前歯で噛んだりしている。ルスタムは、一目でその方面は断念した。彼は、反対の大天幕の裏に目を遣った。その側には、旅嚢でも置いてあると見え、まるで警戒されていなかった。五六人の兵が、互の胴に頭をのせ合うようにして寝ている。規則正しい鼾の音が、夜の静寂の深さを計るように聞えた。ルスタムは、機敏に機会を捕え、木の葉のようにその眠っている兵等の間に辷り込んだ。顔を地に伏せ彼はきき耳を立てた。天幕の中では確に未だ起きていた。何か物をずらす音、咳の声、人が動いて話をしている気勢がする。落付くと、ルスタムは、三人の男の声のうち、一番若い、徹るのが、彼のいる場所からは右手、燎火に近い側から響くのをきき分けた。何かの上にこごみかかって手を動かしでもしながら口をきくと見え、声は、今はっきり響いたかと思うと、次には後尾が曖昧に圧えつけられてかすむ。
ルスタムは、神経を集注させ、その声が一つ処に落付くのを待った。バタンと、重い蓋でも落したような音がし、ひっそりした。やがてまたぼそぼそと語り出した。ルスタムは、顔を伏せたまま、肱でずるずると、声の来る側とは正反対の左方に自分の体を動かした。そして、微かな光の洩れて来る天幕の縫いめのすきを見つけ、膝をついてその高さまでのび上り、片目をよせて内部を覗き込んだ。光に眩い彼の瞳には、案の如く一人の若者の姿が、殆ど正面に映った。今時分、自分を天幕の外から隙みしている者があろうなどとは夢にも知らず、若者はくつろいだ風で卓子《テーブル》に肱をついていた。此方に向いている引緊った、きめの細かい片頬から顎にかけて、斜めに灯が照している。やや憂鬱な黒い眼は、時々灯かげをちらつかせながら、じっと前方に注がれている。ゆるく開いた上着の襟元から、ルスタムは、色沢のよい健康そうな若者の頸を、胸の辺まで見ることが出来た。
幅のある胸、確かりした肩つき、鍛えられ、しかも、未だ塵にしみない青年の、何ともいえない新鮮な感じが、空気のように四辺に漂っていた。眉宇の間、心持大きめに緊った口元あたりに、品のよい、気位さえ認められる。何処となし、若者の態度に、真面目な重々しいもののあるのが、ルスタムに快感を与えた。微塵も、卑しげな粗忽らしいところはないが、消すことの出来ない青春の焔がとろとろとしんに燃えてい、温かい、熾な見えない虹が立っているように思える。
三十一
ルスタムの老た胸には、油然として羨望と一種の哀傷が湧き上って来た。
期待に期待した、最初の覗き穴からの一瞥が彼の予想にそわないものであったため、強者の感じは一層深められたのかも知れない。
イランの陣から、しんとして曠野をツラン方の高地に向って歩いている間、ルスタムは、闇の裡に幾度か、古いサアンガンの王女の俤を偲ぼうとした。あれから血腥《ちなまぐさ》い出来事が多くあったせいか、記憶はひどくぼんやりしていた。例えば、彼女の髪に飾られていた金の輪の色のような些細なことは鮮明に思い出されるけれども、顔立ちの確な特徴などを考えようとすると、ぼんやり目先に浮んでいたほの白い卵なりの輪廓まで、段々遠く小さく後じさって行くようなのであった。ルスタムは、その間に横わる時を思い、淋しい心持になった。けれども、彼は一つはっきりした希望を持っていた。それは、若者の顔を見ることさえ出来たら、そして、そこに何か血縁の類似がありさえしたら、きっと逆に母親の顔も忽ち思い出せよう、それで両方一度に明かになるという考えであった。ルスタムは、天幕に顔をつけ、息を殺し、賤しい奴僕のような態度で内部を覗いた刹那、何か頼りない衝動を感じた。彼が、当にならないことと思いながら当にしたものは、若者の顔から射出していなかった。何も彼の直覚を一握りで捕えるようなものはない。ただ雄々しそうな、育ちのよさそうな、一人の若者の容姿が、静かに順々に、彼の切な瞳に映って来るばかりだ。
ルスタムは、暫く瞠《みつ》めた後、またそっと上体を地面に倒した。頬杖をついて眠っている一人の兵が、寝がえりを打ってルスタムの脇腹に触れた。ルスタムは、じっと考えながら、少し体をずりよけた。あの若者の細面てなところが、何処か、あの女と似てはいないだろうか? いやいや、一体にツラン人は面長だ。この若者に限ったことはない。然し、牽きよせられるように、ルスタムはまた膝で起き上った。そして、眼をすりつけるようにして、内を覗いた。彼にはどうしても、一度視た限りで思いきれない心があった。こうやって若者の顔を目前に見れば、彼が、あかの他人であることは疑う余地なくわかるのに目先が離れると、未練な妄想が再び起って来る。ルスタムは、自分に対して腹立たしい気持にさえなって来た。こんな馬鹿らしい、不様な真似をしたことなどは、ギーウにも話せたものではない。心に呟きつつ、またまた彼は、殆ど無意識にのび上って、塵臭い、がばがばした革天幕に皺深い顔をすりよせる。
三四度それを繰返し、ルスタムは、がっかり地面に突伏した。張合のない、詰らない気がしみじみとした、かさりとするのさえ懶いようだ。――天幕の裾から流れる光が、ルスタムの目の前の地面に漂い、疎らな草の細い葉や小枝の切れはしや、死んで乾いた小虫の殼などを浮出させている。
一寸の間ぼんやりそれ等に目を停めていたルスタムは、やがて、意志の目醒に刺戟されたように、きっとして自分の周囲を見廻した。
いつ迄こうしてはいられない。まだイランの陣まで安全に帰らなければならないという一仕事がある。最後の注意をルスタムは天幕の裡に向けた。もう眠ろうというのだろう。人が動く跫音が――、何か云い、圧しつけたように、「フフフフフフ」笑う声がした。ルスタムはいやな心持になった。
三十二
厭な心持になって、却ってルスタムのためにはよかった。当なく憤然としたような感情が、彼に、年寄のがっかりさを忘却させた。大天幕から外へ出た男が戻るのを待ち、ルスタムは、再びやや隔った次の隠れ場所に移った。陣地のはずれの大体安全な場所に辿りつくまで、ルスタムは、退屈に、来る時の亢奮を全然失った。必要からばかりで、注意深い位置の転換を行った。幸、誰にも見咎められず、高地の端まで出ると、彼は来た時のようにずっと南側を大廻りせず、そこから真直にイランの陣に向って降り始めた。四辺目の届く範囲に哨兵はいなかった。彼はもう、一歩も無駄足はしたくない心の状態にあったのだ。
ルスタムは、体を反らせて平均を保ち高地の半分以上降りきった。時々蹴落された礫が砂まじりの泥と一緒に弾んでゆき、下の方で微かな音を立てた。もう夜は黎明に向ったと見え、高地の中腹から見晴らす広い空の紺黒い色も星の輝きもほのかな軟かみを湛えて来た。
丁度彼がもう少しで高地を降り切ろうとする時であった。不意に一つの黒い影が、彼の横手から現われた。影は、ルスタムを認めると、ぎょっとしたように止った。ルスタムも思わず足を停めた。が、彼は、相当の距離が二人の間に在るのを知ると、またずんずん前進し始めた。影は、草をさわさわ、わけ進んで来た。白い纏布が互に見えるところへ来ると、先方から、一声、何かツラン語で云いかけた。まだほんの少年の音声である。ルスタムは如何ようにでも解釈される合図の積りで、右手をあげ、声の主に向って一両度ふった。足では矢張り歩きつづけながら。すると先方は、もう一遍先と同じ文句を繰返し、ルスタムの行手を遮るようにして前面に廻った。ルスタムは、それを逸して先に出ようとするのだが、執念《しつこ》く行手にちらついて妨げる。彼は不機嫌に、いかめしくイラン語で云った。
「どけ! 若いくせに命を大切にしろ!」
然し対手にわかる筈はない。声の持ち主は、最初の暢《のん》びりした態度を失った。狂暴な勇気で一杯になり、命をすててかかり始めたのは、手脚の熱烈な動かしようでわかった。短剣の閃きが、ルスタムの暗い瞳に光った。――彼は、仕方なく、隠していた軍用棍棒を右手に持った。そして、さっと四五歩右横に走りかけた。ツラン人はそれにつれ、素早く体を動かしたが、ルスタムが、一足ぐっと踏止るや傍をすりぬけ、一気に高地を降り切ろうとするのを知ると、物をも云わず、武器を振って突かかって来た。短剣の切先がルスタムの外衣に触れるのと、彼の棍棒が真向からツラン人の頭に落ちるのと同時であった。ツラン人はぽろりと短剣を落しよろよろ前へのめりかかると、顔を下にしてぱったり倒れた。拡げた手や脚が痙攣した。ルスタムは、それを瞰下し陰気に肩をゆりあげた。彼は、棍棒を傍の草の中に投すてた。心持は益々滅入り込んだ。彼は、大股に、とっとっ、とっとっと高地を降り、冴えない、うんざりした気持で、イランの陣へ戻った。
三十三
夜が白々明け始ると、ツランの陣では、彼方此方から、鳥が塒《ねぐら》を立つような、小さい活気あるざわめきが起った。二人の兵卒が、前晩喋り込んで一緒に眠った仲間の処から自分達の部隊につくため、高地を北から南の方へ歩いて来た。軽い風が東雲《しののめ》の空から吹き、明け切らない草の露が、彼等の足を、ぬらした。上天気になるらしい。日が昇りきれば、今朝は始めてイラン軍との手合せがあるので、二人の兵は、申し合せたように、遠い眼界の中にぼんやり並んでいる敵陣の天幕を眺めた。高地のかげがずっとのびて、彼方にはまだ重い夜が這っているようであった。すると、一人が仲間の胴をつき、「おい、あれは何だ?」と訝かしそうに、高地の斜面の一点をば指した。何か黒い平たいものの形が見える。二人は暫く見ていてから、そろそろ其方に向って降りて行った。近くまで来てそれが何かとわかると彼等は愕いた眼を突き出して顔を見合せた。スーラーブの扈従《こしゅう》の一人に違いない少年が、何かにたたきのめされたように硬張って死んでいる。二人は、速足に高地を引かえした。そして、伍長を案内して来た。話をききつけた者は、皆ぞろぞろ後をついて来、死体を見ると、目を瞠って、彼等の命令者の顔を見つめた。皆は、僅か十六のガワが、どうして夜の間にこんな処でたおれたか、訳がわからなかった。何処にも傷が見えなかった。彼は病気だったのか。何かの悪鬼が陣地で一番若い彼を狙って生霊を喰ったのではないか。がやがやしているところへ、スーラーブの姿が見えた。兵等は円くかたまった輪の一部を開いて、スーラーブを中に入れた。伍長は、切口上で、二人の卒がこうなっているガワを発見したことを報告した。
スーラーブの顔は著しく蒼かった。彼は、その噂をきくと、すぐ陣中に侵入者のあったことを直覚した。自分が何も知らずに眠っていたことや、その他まるで防備のなかったに等しい夜中のことを考えると、寒い恐怖が背筋を走るのを覚えた。それほど大胆な敵があったのに、自分の生命が完了されたのは寧ろ奇蹟のようにさえ思われる。彼は屍の傍に跪《ひざまず》き、細かに検べた。何のためにガワが此処迄出て来たのか、それは彼にもわからなかったが、何かで打たれたのは、耳の中に出血しているので確かであった。彼は眼敏くガワの帯革
前へ
次へ
全15ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング