境遇のさせる業と思う。卿がありもせぬところにまで己の種を求める心根を察しると同情を禁じ得ぬが――余りよろこばしいことではないぞ。男が眼を開いて夢を見るのはよくない。出かけよう。出かけて真相を確めれば却ってさっぱりしてよかろう」
 けれどもルスタムは二日の間何方にも決定しかねた。彼はこの不決断を、ギーウに殆ど罵られた。彼は、黙ってそれを受けた。
 ルスタム自身も、自分の心が妙に活々した力を失い、ぼんやりした而も頑固な逡巡に捕えられているのを知っていたのだ。
 ギーウの言葉に外から腰を押されるようにして、ルスタムは遂に条件つきの出動を承知した。健康が勝れないという理由で、彼は、一切の責任を避けた。そしてほんの観戦の積りで出るということになった。ルスタムはギーウに「何しろ王はああいう性質だから、後々詰らぬ面倒を起こすことになっても始まらぬ。――奉公の、今度こそ仕納めに、出かけることにしよう」と云った。けれども、衷心では、ツランから来たという若者に対する不思議な好奇心を制することが出来ず、彼は、それだけに牽かれて、自分の体力が衰えたという危惧もすて、出かける決心をしたのであった。
 ギーウは、直にまた馬を飛ばしてツスに帰った。ルスタムは、種々な感情に満されながら、出発の用意を整えた。少数の親兵だけを従えて行くことになった。幾年ぶりかで城の広場に武具が輝き、馬の嘶《いななき》や、輜重《しちょう》をつみ込む騒ぎが、四辺に溌溂とした活気を撒いた。
 ルスタムは、その間を彼方此方に歩いて指図したが、彼は、ふと妙な心持に打たれることが屡々あった。どうかしたはずみに、この夥しい騾馬《らば》の群、血気熾な男達をつれて自分は何処へ行くのかと思うと、行手は、まるで見知らぬ国の霞の中にでも消えているように杳《はる》かな、当のない心持がするのであった。
 それに気がつくと、ルスタムは私に愕いた。老耄の徴だろうか? 彼は、あんな遠い奇怪なアザンデランに出かける時でさえ、数年前の自分は確信と勇気に満ちていたことを思い出した。

        二十七

 何方から云っても、ルスタムの出発は地味なものであった。彼はギーウが帰えってから五日目の払暁、静にシスタンの城を立った。二日の間、北へ北へと、砂漠のふちを進み三日目の夕暮、ツスから真直に間道を突切って来た王の全軍と合した。
 カイ・カーウスは、派手な銀飾りのついた甲冑をつけ、逞しいイラン種の馬に跨って、軍列の中央に騎っていた。彼は、絶間なく傍の者と喋った。道路が険阻な崖にでもさしかかると、甲高いせわしい声で乗馬を励まし、頻りに唾をはいた。そしてルスタムが、何故、ラクーシュに騎って来ないか、繰返し繰返し尋ねた。
 王との応対は、ルスタムにとって忍耐を要する一つの義務であった。けれども、長距離の騎行と、晴れた夏の星夜の下の露営は、彼によい結果をもたらした。
 彼は、シスタンの城にいる時よりは、ずっと沢山食った。若い者のように、ぐっすり眠った。そして道の工合が好かったりすると、彼は何ともいえない身軽な快活な衝動にかられて、馬を※[#「足+(炮−火)」、読みは「あがき」、第3水準1−92−34、379−7]でかけさせながら、軍列を前後に抜けた。ギーウはそれを見て微笑した、猛々しい猟犬が、老いても尚角笛を聴くと気負い立つように、ルスタムには何といっても戦場の雰囲気が亢奮剤になるのを認めたからであった。四昼夜の後、イラン軍はツラン軍の陣どった高地から一ファルサングの地点に到着した。ルスタムは、元気よくギーウを助けて隊列を二分し一部を率いて更に五百ザレほど前進した。そこからは、もう明かに敵陣が見えた。
 イラン勢はそこに止った。そして勢いよく羯鼓を打って示威運動を始めた。
 ツラン方も、待っていた敵を迎え喜びに堪えないように太鼓を鳴し鐃※[#「金+(祓−示)」、第3水準1−93−6、379−14]を擦り合せてそれに応えた。合間合間にどっと、血の沸くような鯨波《とき》があがる。その轟は夕陽の輝きですき透り、眩ゆい曠野じゅうの空気を震わして転がって行き、遠い夕焼雲の彼方が反響した。
 ルスタムは、我知らず乗馬の手綱を控えた。彼は、目を凝してツランの陣を視た。
 背後に喬木の疎な林を負った高地の略中央に、一つの大|天幕《テント》が見えた。それから相当な間隔を置いて五つ真中のよりは小ぶりな天幕小屋がある。正面から西日を受けそれ等の天幕は燃えるように照った。ずっと左よりにもう一団右手高地のはずれ近く他の一団。その間をちらちら樹林から兵の屯所らしいものが眺められた。ルスタムは、特別じっと、中央の大天幕に目を注いだ。位置といい、大きさといい、それがツラン方の本営となっていることは疑いない。見ているうちにも幾人となく兵卒が出入りした。すると間もなく、この大天幕の裡から一人純ツラン風の装いをし、纏布に真赤な羽毛飾をつけた将らしい男が現われた。
 出て来ると、その男はぐるりと高地の下に展開したイラン方の陣を瞰下した。そして、引かえすと、今度は別な四五人の将と連れ立って再び現われた。自分が中央に立って此方を指しながら、頻に何か説明している。やがて集団が少し解ぐれ、一人一人の椅子が見えるようになると、ルスタムは、思わず、二三歩馬を騎り出した。この群の中に、確にギーウの話した若者らしい兜を戴いた者がいた。兜を戴いた戦士は独りだけもとの場所を動かず、時々キラリ、キラリと鋭く兜のはちを西日に煌めかせながら熱心にイラン方を観察していた。

        二十八

 間もなく、その兜の戦士は、手を上げて、散りぢりになりかけた他の将等を呼んだ。彼の囲りには再び小さい集団が出来た。そして改めて何か、探しでもするように方向を更え、イラン勢を展望し始めた。
 ルスタムは、遙彼方に小さく見えるそれ等の敵の行動から、何か重大な、意義ありげな一種の感銘を受けた。兜の男の一挙一動は皆それぞれ意味のあるもので、彼自身が此方でこうやって視、感じ、考えていると同じ心が籠っていることを理解される。これはルスタムにとって珍しいことであった。彼は、老練な狩人のように、敵の本能、賢さを見るのは速かったが、相対の人間として同感を持ったことなどは、殆どなかったのであった。
 兜の男は、一定の距離の間を往復しながら、頻りに此方を観ていたが、やがて止って傍の者に何か命令した。命令を受けた男が何処へか去るとすぐ、一人の兵卒が、手綱で二匹の乗馬を牽いて現れた。兜の男と赤い羽毛飾をつけた男とが、ひらりとそれに跨った。
 彼等は暫くの間、並足で高地の端に沿って騎って行ったが、一寸、物かげに隠れると、今度は別な方から、小刻な※[#「足+(炮−火)」、第3水準1−92−34、381−6]で出て来た。ルスタムは、二三遍、馬の背で調子よく揺れる兜の煌く頂が、見えたり隠れたりするのを追った。けれどもふと、一つ向きが更わると、そのまま二人とも高地の奥へ見えなくなってしまった。
 ルスタムは、急に索然とした失望を感じた。それでも、今来るか、今来るかと思いながら、彼は永い間、其処から動かなかった。
 騎士等は、きっと何処か別な、彼に見えない処で降りてでもしまったのだろう。
 ルスタムは、余程経ってから、のろのろ、何かに気を奪われている風で馬の頭を立てなおした。陣地と定った場所では、兵等が罵り合い右往左往して、幕営の準備をしていた。ルスタムは、混雑した荷騾馬の群の横や、地面に積上げられた食糧の大袋の山をよけ、彼方の天幕に戻った。
 その晩イラン方では、戦捷の前祝に簡単な祝宴が催された。大きな燎火が、澄んだ曠原の夜の空を一部分ボーッと焦している下で、兵卒等はぐるりと幾つもの円い輪に坐り、てんでに果物酒と堅焼煎餅とを前に置いて、喋り、笑い、或る者は、歌を謡った。火かげにかがみ込んで、分配されたそれらの酒や煎餅を賭け、一心に、肱で邪魔な見物をつきのけながら、骰子《さいころ》を転がしている者もある。
 ルスタムは、日暮から王の天幕にいた。けれども、彼は何となく四辺の空気になじめず落ちつけない心持がした。上機嫌な王の酔った声をききながらも彼はちらり、ちらりと、夕やけにきらめいていた兜の光を思い出した。それを思い出すと、ルスタムは、妙に見のこして来たものがあるような気持がした。そして、天幕の裡の酒と香の匂いが鼻につき、居心地わるく感じるのであった。
 夜が更けるにつれ、段々空気は重く、濁って来た。王も疲れが出たと見え、十文字脚の腰架の上で時々こくり、こくりと居睡りを始めた。ルスタムは、ギーウと低声にぼつぼつ話していたが、それを見るとそっと腰架をずらせて立ち上った。彼は、目顔でギーウに、自分の去ることを示した。そして垂幕をかかげ、王が目醒るのをおそれるように、いそいで天幕を出た。

        二十九

 一歩外に出ると、ルスタムは、思わず胸一ぱいに息をすい、心からのびのびと伸をした。天幕の中と違い、夜の野天の限りない広さには、すがすがしい、涼しい空気が満ちていた。熾だった燎火も消え、処々に、低く篝火が燃えていた。周囲に、哨兵の起きている姿が黒く見えた。四辺一帯寝しずまって、闇の中から、入り混った幾つもの人間の深い寝息、微かに馬が脚をずらす響などが伝わって来る。息の音ほかしない地面から見上げると、空に燦く無数の星が実に活々、命あるもののように見えた。瞬く毎に、サッサッ、サッサッという活動の響がふって来そうに思われる。
 ルスタムは目を移して、ずっとツランの陣を眺めた。彼方にも、極僅しか篝火は見えなかった。後に樹林を負うている故か、まるで暗く、高地全体が山の懐に消え込んだように見えた。次第に目が闇になれると、ルスタムは、ツラン方に光る篝火の、すべての遠近を区別出来るようになった。一つのかなり大きい燃火は、どうも太陽のあるうち、見たあの大天幕の前あたりで燃えているらしい。ルスタムは、自分で心付かない、必要以上の緊張でよくよくその点を凝視した。彼は、目に見えない生きものが、心臓の中で微かにひくひくと身動きしたような気がした。確にその篝はあの天幕の近くで、瞳を凝すと、天幕の斜面の一部分がその明りに照り出されているのも見わけられるのだ。
 ルスタムは、ぶらぶら歩きながら、幾度となくその方を眺めた。一度眼が其方に向くと、容易に引はなされなかった。明りはルスタムの心に、だんだん光明を増し、誘惑の力を増した。全く、ルスタムはその篝火の色や、静かに反映している天幕の面を視ると、もっと近くもっとよく其処にいる者、あの兜の男を見極めたい慾望が、制し難く募って来るのを感じた。ひっそりした天地の間に輝くその光は、時々ぱっと揺れ、燃え立ちながら、溢れるような囁きで、「一寸今の間に、よい時ではないか。来て覗け!」と誘っているようにさえ思われる。ルスタムは、何か巨大な磁石で自分の体の其方に向っている半面が、ぐいぐい引きつけられるような危さを感じた。
 彼は、それに抵抗しようとするように、努めて、其方に背を向けた。そして、四五間元来た方に引返えしかけた。が、彼はぴたりと立停った。闇に浮き上って見える纏布の頭を重く垂れて、何か考えた。――再びルスタムは、ツランの陣に向って立った。彼は、せかない足どりで、最前線に燃火を囲んでいる哨兵の一団のところへ行った。彼は、其処で一本の軍用棍棒を借りた。それを持ってルスタムは、誰の眼にもふれない曠野の真中に出て行った。イラン軍の篝火もかなり遠く見える処まで来ると、ルスタムは、星明りに眠い陰気な陰翳を落している一つの叢を見つけた。彼はその傍に胡座を組んだ。そして、頭の纏布をはずし始めた。彼は、それを手早く解き、平の兵卒風に脳天を露出させて巻きなおし一方の端を頬に触るる位垂した。次に上衣を上から帯で締めた。フェルトの長靴をはいた足拵えをしなおした。すっかりすむと、ルスタムは、立上り、ツランの真似をした衣服や纏布の工合を試すため、幾度も腕を上下して見、頭を振って見た、何処もちゃんとしていた。
 ルスタムは、地面におい
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