びた服装を眺めた。
「えらく煽ったと見えるの――」
何か云いかけそうにしてやめ、ルスタムは広間に入り、自分のいた場所にギーウを坐らせた。侍僕等は、ギーウのために、手を濯《すす》ぐものと、新たな酒肴とを運んだ。
二十三
六十七歳のルスタムは、ギーウの不時の来訪を、言葉に現せない悦びで迎えた。彼は、ギーウの好む果物酒を命じて貯蔵所から持ち出させた。疲れた躯の居心地よいようにと、自分の汚点《しみ》のあらわれた手で座褥の彼方此方を叩いた。そして、愉しげに傍からギーウが見事に盃を乾す様子を眺めた。
ルスタムは、この頃、何方かといえば寥しい日を送っていた。季節は狩猟の時季を過ぎてしまった。辺鄙な城まで訪ねて来る物好きもない。内房もさほど楽しいところでもなかった。青年時代からひどく近頃まで遠征から遠征にと転々していた彼は、家庭の生活というものに悠くり親しむ暇がなかった。それが、こうして城に落付き、老年の慰安や静かな輝きを平安な日常の些事の裡に見出そうとする境遇になって見ると、ルスタムは、今迄まるで頓着しなかった深い一つの物足りなさ、寂寥さを身辺に感じた。それは、城中に、対等で話せる男性が一人もいないということであった。いる者は、幾人在っても皆臣下で、彼の言葉は余り絶対に肯《う》けられすぎた。ああしたいこうしたいという暢やかな心にふと浮んだ思いつきも、一言唇の外に出ると、すぐ命令として受けとられ、立ちどころに、ゆとりのない完全さで遂行されてしまう。ルスタムには、それがつまらなかった。内房は、いうに及ばぬ。彼が、余り屡々《しばしば》、また余り長い間音信も出来ない征旅についていた故か、三人の妻妾等は互の間に姉妹より睦しい情誼を結んだ代り、ルスタムとは、君臣の関係が溶けきれずに遺った。その上、彼は、どの女性によっても子供を得なかった。そのために内房は、限りなくだんだんに日がかげって行く処のような感じを持たせた。ルスタムは、黙ってはいたが、自分に唯一人の男児さえないということが、家庭にある自分の総ての寂しさの原因だと知っていたのであった。
黒人娘の芸を観ていたうちにも、ルスタムは心の底で、独言した。「狡い男め、貴様が何を待っているか、儂には判っているぞ。儂の情慾で一儲けしたいのだろうが、それにはちと年寄のところへ来すぎたらしいぞ」
皮肉な諧謔の裏に、彼だけの知る余韻の長い哀しさがあった。それだから、ギーウの来たのはルスタムにとって、暖い、男らしい太陽の光が胸に流れとおったような快よさなのであった。彼は、ギーウに酒を注いでやりながら、家族の安否、首都の模様などを尋《き》いた。ギーウは、軽い冗談を交えてそれに答え、じろじろ黒人の芸人娘の方を視た。
「彼等はイラン語がわかるのか?」ルスタムがその方を見ると、芸をやめて一処にかたまり時々振り向いては眼の隅から新来の客の様子を窺っていた娘達が、一斉に黒い顔に真白な歯を現わしてにっと彼に笑かけた。ルスタムは見ない振で盃をとった。
「エチオピアの方から来たのだそうだから、解るまいとは思うが――どけるか?」
ギーウは、一人混っている中年の創傷あとのある男の顔を特に疑わしそうに見た。
「あっちにやろう。何も今ここに置く必要はない」ルスタムは、広間の隅にいる侍僕を呼んだ。男は命令を受け、二言三言芸人娘等に何か云った。彼等は、礼もせず騒々しい様子で広間を出て行った。
「それで先ずよい」
ギーウは、くつろぎながらも、居住居をなおした。そして、低い声で云った。
「実は、王から命を受けて来たのだが――ツランのアフラシャブが、また手出しをしおったのだ」
二十四
ルスタムは、微かにいやな顔をした。それを聴けば彼には何のためにギーウがよこされたのか充分推察がついた。要求されることは判っている。それに対する自分の返答も既に定まっている。彼は、ギーウに対する礼儀だけから、気のない調子で、
「ふむ」と云った。
「さすがに今度はアフラシャブも自身出かける気はなかったと見え、何処か属領の若ぞうを煽てて向けてよこした。フィズルが城を渡して注進に来た。急なことで彼も驚いただろう」
「いつのことだ?」
「注進がツスに着いたのは、儂の出発する半日前であった」
「それで何か、どんどん追撃でもして来るというのか?」
「懲りているから、軽はずみはしないらしい。じっと国境近くの陣を守っているそうだ。主将は変な、イラン風とツラン風俗の混った装をしているそうだが、アフラシャブの幕僚だったらしい男が二人以上ついているという話だ。――名誉はその男等のもの、不名誉と失敗の咎は、何処かの愚なその若者に背負わせようというのだろう。ところで――云わずともう解っただろうが、王は卿の出動を切望しておられるのだ」「ふーむ」ルスタムは、不承知の感情をありありと顔に表した。ギーウは、それを見てとり、気軽そうに云った。
「何一寸卿の有名な白馬ラクーシュと卿の旗を見せさえすれば好いのだ。そんな青二才なぞは、穢わしいジャッカルのように尾を巻いて退散するだろう」話の中に繰返される主将が若者であるという点が、何となくルスタムの心を牽いた。彼は漠然とした好奇心で尋いた。
「一体その若者というのは何者だ? 幾つ位か、フィズルが話したか?」
「話した。何でも二十になったかならない位に見えたそうだ。ツラン風に帯でしめつけた衣服をつけているのに、頭には磨いた、まるでイラン風の兜を戴いていたそうだ。それで見ると、イラン国境に近い属領のものと思えるな」「ふふうむ――」ルスタムは、何か遠い記憶を思い出して辿るような眼つきをした。彼は、それらの言葉が心の中に入って、じっと眠っていた何ものかを掻き立てるような感じに打たれたのであった。自分が、昔、昔、未だ壮《さか》りの年であった頃、盗まれたラクーシュを追ってツラン境のサアンガンに行ったことがあった。彼処の男等は、そういう半々な風をしていたのではなかろうか――まざまざと二昔前の情事の印象が蘇えって来た。
若しや、万一、その若者というのは自分の息子ではあるまいか。ルスタムは、我知らず髭をかみ、つきつめた顔をした。若しやそれが自分のたった一人この世に持った息子だというのでないだろうな。ルスタムは、ギーウが怪しんだほどゆるがせにならぬ調子で追窮した。
「何処の者か聴かなかったろうな」
「――わからぬ。が、いずれ高の知れた者だ」
ギーウは、要点に立戻るために語調を更えた。
「然しとにかく悪戯をさせておけぬから、一刻も速く定りをつけなければなるまいが――卿は何時出発して貰えよう。儂は至急戻って復命し、準備をする」
「――さて、――」
ルスタムは、凝っと広間の一隅に目をこらし、深く思い入った風で呟いた。
彼はギーウに向ってよりも寧ろ自分自身の心に対してこの一言を呟いたのであった。思いがけずきいた若者のこと。つれて心に湧いた疑問は、ルスタムにとっても意外なものであった。まるで今の今まで忘れきっていた古いことが急に活々と心の表面に浮び上って来るや否や、もう紛らされたり、除かせられたりしない根強さで、考えの中心勢力となってしまった。而も、それが理窟で判断すれば、不合理なものであるのをルスタムは知っていた。彼は、サアンガンにわざわざ使者をやり、子供の誕生の有無を確めさせた。サアンガンの王女は自ら、母とならなかったことをその使に托して告げて来た事実があった。それだのに、猶このようなはかない妄想を抱くというのは。
「さて――自分はそれほど寥しがっているのか」
という、言葉にならない歎息がルスタムの胸に起ったのであった。
二十五
彼は、純白の纏布を巻きつけた頭を軽く左右に振った。そして、気をとりなおし、ギーウに新な酒を勧めた。
「――卿の立てなくなるまで果物酒を振舞おう。その代り今度のことは」
「いやそれはならぬ」ギーウは差した盃をわざと引っこめて云った。
「それでは心を許して好物も味わえぬ。狡い老人だな、王の命令まで盛潰そうとする」
二人は愉快そうに声を揃えて笑った。がルスタムは直ぐ、真顔にかえった。
「卿を使者に遣わされた王の思惑はほぼ推察がつくが――全く、今度のことは卿の働きにまかせよう。年寄が出るがものはない」
ルスタムは、四辺が暗くなると広間に幾つも大|篝火《かがりび》を燃させた。揺れる赤い光で、広間じゅうが照った。
再び、黒人の芸人娘が呼び出された。
彼女等は昼間とは服装を更え、縮れた碧色の髪に、強い香を放つ乾花の環を戴いていた。衣服は薄く漣のようにひだが多く、鐃※[#「金+(祓−示)」、第3水準1−93−6、375−11]《にょうはち》を打って踊る毎に、体の形がはっきりすき透った。踊娘等は、白眼がちのきれ上った大きな眼に野蛮な媚を湛えて、ギーウやルスタムに流眄を与えながら、時には乳房が男等の頬に触れそうになる迄かけより、すりより、またさっと飛びのいて踊る。広間の外の歩廊の闇の中で、多勢の気勢がした。踊子等が黄金の踝飾《かしょく》をきらめかせ、大胆に脚をはね上げて踊って行くと、俄かに抑えかねたどよめきが起った。城内の男等が見物に来ているのだろう。ルスタムは、ひらひら床の上に入り乱れる女等の影や、微風ではためく篝火の焔、忍足で外廊を過ぎる人影などをぼんやり見遣った。彼の心は、周囲の賑やかさ音楽の騒々しさに拘らず、妙にしんとしていた。ただ一つのことが、しんから彼の念慮を捕えていた。ツランから来た若者のことである。始めアフラシャブ侵入のことを聞いたとき、ルスタムは、単純な面倒くささから出るのを嫌ったのであった。けれども、今は、異様な畏怖、予覚のようなものが加わっていた。行って見たいような、また、行かない方がよさそうな。彼が嘗て経験しなかった自分の進退に対して不安な半信半疑な気持にされたのである。ルスタムは一方からいえばその心持に明かな自分の老いを自覚した。けれどもまた一方から考えると、豪気な質の自分が、急にこんな変な弱い憑《つ》かれたような心持になるというのは、何か全く予想外な虫の知らせなのではないかとも思われる。まるで行かず、一目その若者を見ないでしまうのも心残りのようであるが。ルスタムは、考え惑った風で、手に力を入れ白髭をしごいた。注意深くその様子を見ていたギーウが、積重ねた座褥に肱をつき、ルスタムに顔を近づけて囁いた。
「――迷っているな?」
ルスタムは呻くように云った。
「うむ」
ギーウは、少し血走った眼でつくづくルスタムの相貌を視た。
「出かけろ、ことは詰るまいが、卿の血を少しは活々させるだろう。羚羊狩のつもりでよい。老いこむばかりが能ではないではないか」ルスタムは音楽の響が一きわ高くなるのを待って云った。
「儂には、妙にそのツランから来た若者という奴が心にかかるのだ。真実敵か味方かわからぬ――」
「――?」
ギーウの顔に顕れた意外の色は余り著しく、ルスタムに居心地わるい感じさえ起させた。
二十六
ルスタムは、顔を背向《そむ》けるようにして低く呟いた。
「そやつの年頃が、こじつけると、丁度卿も知っているあのサアンガンのことと符合する。風体も何だかあの辺の者らしいではないか」
「ふむ……」
ギーウは、まといつきそうにする踊娘の一人をうるさそうに片手でどけた。
「――然し、変ではないか。あの時のことは何の実にもならなかったのだろう? 俺はそうきいたと覚えているが……」
「彼方に遣った使者は、そういう返事を持って来た。そのままにしていたのだが」
ギーウは、暫く沈黙した。そして考えた後、情のこもった調子で云った。
「何にしろ、こういう処にいるのはよくない。よい折だ。出かけよう」
「――出かけるのを強ち拒むのではないが、先に控えていることがいやだ。――俺は、多くの戦もしたが、まだ、敵か味方か判明せぬ者を殺したことはない」
ギーウは、一言一言の言葉で、がっしりしたルスタムの老いた肩を優しくたたくように云った。
「それもこれも、俺は、卿の退屈すぎる
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