軍に加わってイランに行き、親くルスタムの顔を見知っているということが、ひどくスーラーブをよろこばせた。(このことは、スーラーブの満足であっても、彼等にとって冷汗の出る記憶が伴っていた。十年昔、アフラシャブは三度目の決戦をする覚悟で、大軍を率いてイランを攻めた。アフラシャブは前回が失敗であったにも拘らず虚を衝くつもりで、一年も経ず、また出かけたのであった。が、矢張り勝算がなく、或る日の合戦で、アフラシャブ自身が、ルスタムの捕繩で首をからまれてしまった。白いラクーシュにのったルスタムは、確かり馬上に踏ん張り、大力を出して、引きよせようとする。アフラシャブはすっかり動顛し、叫び、藻掻《もが》いて抵抗しようとするが、力かなわず、腑甲斐なく、乗馬の尻を地にすって引よせられる。駆けつけたフーマンとバーマンが、剣を振り、やっと、太いルスタムの捕繩を断ち切った。その時、ルスタムが、銀のように輝く兜の下から、大きな目で、凝っと彼等を見据「ツランの痩狼! 主人を助けに出て来たな」と云ってカラカラと笑った。この話は、当時ツラン全土に伝えられた有名なもので、スーラーブの子供心にさえ鮮かな驚異を与えた。)
必要な手順が内密に調うと、スーラーブは、一般の臣下、村落の男子に、イラン遠征のことを明した。何処となく従前とは異るスーラーブの様子や、特に最近、不時の穀物徴発、馬匹整理のあったことなどで、事ありげに感じていた者共はスーラーブの宣言を、平静に、勇気に満ちて受けとった。
城の広場に召集された城の内外の主だった男達は、一人一人、進み出で、スーラーブの武運長久と、彼等の忠節の誓いを立て、神を召喚して、彼の剣の把手に額をつけた。
スーラーブの日常は、過去数週間の沈滞から、俄に活動の極点に移った。彼は、サアンガンの総勢を十隊に分けた。そして、一日交代に半隊ずつを引率し、猛烈な規律ある野外訓練を始めた。内房に、この度の企てが告げられた時、流石にここでは、気負ったスーラーブも当惑した。驚きの叫びと、恐怖の涙が室に満ちた。ターミナは、激しく涙を流しながらスーラーブの手を執り、自分の頬に押し当て歎いた。
「ああ、ああ、卿を楽く活かそうと思って、却って殺すことになってしまった。スーラーブ、よく覚えていて下さい。卿の屍を焼く日は、私の葬られる日ですよ、母を思うならどうぞ無事な姿を見せて下さい。卿が無事に戻る迄、私は、城の扉も閉めさせまい」
二十
母の悲歎は、強くスーラーブの心を痛めた。彼にとってそれが苦しいのは、もう自分の決心は到底動かせないもので、たとい母がそのために泣き死んでも、止めることは出来ないと解っているからであった。彼の親切な慰めもこれが最後かという悲しさのために、却って、ターミナにとって堪え難いものらしく見えた。スーラーブは、愛を籠め必要な説明と希望とを与えた後、出立迄、出来るだけそのことには触れない方針をとった。内房の女達は、やがて黙って、折々不安の吐息を洩し、眼頭に涙をためながら守袋を縫ったり、鞍布の刺繍にとりかかり始めた。是等の沈み勝な湿っぽい情景に拘らず、時期が迫って来るにつれ、スーラーブの全身には、益々精力が充ち満ち、心は、満を持した弓のように張り切った。シャラフシャーやアフラシャブの宮廷から先発して来たフーマン等と進路のことにつき、または戦略に関し、長時間に亙って協議した後、スーラーブは、新鮮な息を吸おうとして、広間の歩廊に出る。が、爽かな空気を呼吸するどころか、彼は、丁度下の出立の仕度で大混雑の広場から舞上る、むせっぽい砂塵を浴びた。
晩春の晴天つづきで、広場は乾ききり、地面は一面薄黄く、ボガボガになっていた。そこに真上から日光に照され、無数の男が、立ったり据たり、各自の仕事に熱中していた。或る者は、足の間でカチカチ鳴る金物を押え、頻りに弄り廻している。或る者は、出来上ったばかりの鞍をその手に持って立ち上り、パンパンパンパン好い音を響かせて塵を払い、直下にしゃがんでいる男から、
「ヘーイ! 目を開けろ! 泥をかけてくれるにゃあ未だ早いぞ!」と怒鳴られる。どっという陽気な笑い声。彼方の隅に五つ並べて築かれた急造の石の大竈からは、晴れた空に熾な陽炎を立てながら、淡い青い煙と麦の堅焼パンのやける香ばしい匂が漂って来た。それに混って、馬の、遠くから来る、かん高いいななき。何処かで重い物を動かしているらしく低い、調子の揃った、力の籠った懸声も響いて来る。心を合せ、彼一人に信頼し、これ等の活動をしている者等を見ると、スーラーブは、しんから謙遜に、自分の計画の成就を祈らずにいられなかった。彼は、自分も彼等も等しく大きな運命の扉を開くためにせっせと準備し、用意しているように感じた。彼が、初めてイランに侵入する決心をした晩、空想のうちに、幻と思えないまざまざと浮んだ父の姿は、一層はっきり彼の心にやきつき、守本尊となった。この広場の大ごたごたの上にも巨人のような父の姿が、透明な積雲のように、而も溢れる精神に漲って、凝っと自分の計画に注目しているように思うのであった。
六月の下旬、スーラーブは、予定通りイランに向って出発した。彼の、厚い鉄の胸当の下には圧搾され、やっと縮んでいる限りない希望と、母から借りて来た、あの銀台に土耳古玉をつけた頸飾りが大切に蔵われていた。ターミナはこの菱形の碧い珠に、幾夜かの涙と祈りとをこめて別れを告げるスーラーブの頸にかけた。彼女は、今度の計画が成功すれば、必ずルスタムとスーラーブの名に於て、迎えを寄来す。使が、再びその頸飾を白檀のはこに入れて持って来れば、信じてその者に案内を任せるようにと云う、スーラーブの言葉を唯一の希望に老いたシャラフシャーと、人気のない城を守ることになったのである。
スーラーブの軍は、十日目の日沈頃アフラシャブ領とサアンガン領との境を区切る険阻な巖山の麓で、バーマンに率いられ、一日前に先着していたツラン勢と落ち合った。
二十一
六七月は、ツラン、北方イラン地方で、最も気候のよい時である。毎日、空は瑠璃のように燿く晴天つづきで、野原や森林は、瑞々しい初夏の若葉で、戦ぎ立っている。夜は、星が降るように煌いた。春の雪解でたまった手の切れるような水が、山奥の細い谿流にまで漲り渡って、野生の種々な花の蜜とともにどんなに貪婪《どんらん》な喉を潤しても尚、余りあるほどだ。夥しい兵と、数百の乗馬、荷驢馬の長いうねうねした列は、彼方此方で夜営のかがりを燃き、平和に、寧ろ巡礼旅行者のように進行した、イランの国境に迫る迄、多くの者は、甲冑さえ正式にはつけなかった。
この季節は、夜が非常に短いので、予定より早く二十五日目に、今迄ずっと登りであった山路が、次第にイラン内地に向って下り坂になって来た。戦いに向うにしては、余り言のなさすぎる長道中に稍倦怠を感じ出した者共は、いよいよ明日、イランに入ると聞いて、俄に勢い立った。そして、その夜は、早めに天幕を張り、大きな焚火の囲りで、武装を調えた。便利のため、巻いて荷馬の背につまれていた旗が、堂々と旗竿につけられた。
スーラーブ始め、主だった将卒は各々位置に応じた盛装をした。フーマン、バーマンの経験によると、国境の山を登りきり、三ファルサングも降ると、イランでは最も西部の辺鄙を護る城がある筈であった。その前の時はアフラシャブの主張によって、わざとそれを迂回して中心を衝こうとした。ところがそれが失敗した上、要路に矢一つ受けない城が控えていたため、退却中でも、惨めな退却を余儀なくされた。彼等は、後の要心に、撃てと云う。スーラーブは、他の理由から、それに賛成した。彼は、出来るだけ早く、多くを殺さず自分も疲れないうちに……最も不幸な場合を予想すれば自分が死なない中――ルスタムを誘い出したかった。それには結局どうでもよいその城を攻め、一刻も早く、侵入の報告を中央にもたらさせるに如くはない。――翌朝未明に、ツランの全軍はその城塞が目の下に瞰下せる処まで降りていた。そして、十分の一の兵が真直に、丘陵に聳えている堡塁に迫り、残りは、遠巻にその周囲を取繞いた。
三日の間、相当に烈しい戦闘が続いた。ツランの兵は手頃な戦いの玩具をあずけられたように、元気で、自信を以て働いた。
矢の数を比較しただけでも、既に大体の形勢は定まっている。城主のフィズルは、悧巧にほどを見計らい、王から、卑怯の譏《そしり》を受けず、自分の生命も危くしない四日目にツスに逃れ去った。スーラーブの軍は、僅の死者、負傷者の手当をし、捨られた城の穀倉から、五十頭の驢馬に余る小麦、その他の糧食を奪い、更に前進して、もっと開いた曠野に出た。万一の場合退路を遮られないように、同時に、軍の全勢力を自由に働かせ得るように、地勢を調べて中央部となるべきスーラーブの野羊革の大天幕が張られた。そこは、背後に適当な距離を置いて、守るによい山裾の起伏の連った、延長十ファルサングばかりの緩やかな斜面を有った高地である。スーラーブは、陣地に立って、三方を展望した。父ルスタムの来るだろう西方の、ツスの辺は、内地イランの乾燥した、塩でもふいているかと思われる不毛の荒野の地平線の彼方に隠れていた。
二十二
カイ・カーウスは、国境の城塞を捨て逃れて来たフィズルの急報に全く愕かされた。彼は何よりも先ずシスタンに隠棲しているルスタムを動かす必要を感じた。けれども、最近ルスタムが戦場のかけ引に一向興味を失っているのは誰の目にも顕著であった。極近く南方イラン征討隊が派遣された時にも、ルスタムは固辞して受けなかった。その時親友のギーウに、自分の武人としての最後を飾るのは往年白魔をカスピアン沿岸で討った事蹟だと洩したことは、王の耳にも入っていた。然し、ツランの軍勢にルスタムの名は、或る魅力を持っている筈だ。カーウスは頭を悩ました後、一つの方法を思いついた。彼はギーウを呼んだ。そして、シスタンに赴いてルスタムの出動を促すことを命じた。ギーウは当時、ツス近傍の総軍帥であった。この切迫した場合、彼が重大な位置を暫く空けて迄出かけたというところに、親友である事実以上の或る意味が加わることをカーウスは考えたのであった。
ギーウは、使命をやや苦痛に感じながら、一昼夜、馬を走らせた。広い夏の白光の下で乾き上った砂漠が、彼の周囲で、後へ後へと飛んだ。二日目の午後、シスタンの城が平坦な地平線に見え始めた。容赦ない一煽りで、汗にまびれ塵にまびれて城の広場に乗り込んだ時、ギーウは浮かぬ顔付で、下僕に馬の手綱を渡した。彼の、疲労でざくざく鳴る耳に、この城に珍しいなまめいた音楽が聞えた。彼は一言も口を利かず、侍僕に案内させて、城内に入った。
城の広間でルスタムは、紅海の近くから来たという黒人娘の芸当を見ていた。妙にキーキー鋭い音の胡弓と、打込む重い鼓の響に合わせて、真碧い色に髪を染た娘達はぐっと、体をそりかえらせた。そして、手足にはめた黄金の環飾りをチリチリ鳴らし、何か叫んでぼんぼん、ぼんぼん幾つもの球を巧に投上げては操つって見せる。積み重ねた座褥にもたれ、白髭を胸に垂れ真面目な顔をしてそれを見物していたルスタムは、殆ど同じことが数番繰返されると、倦怠を感じ始めた。これが済む迄と思っていたところへ、思いもかけずギーウの到着が知らされたのであった。
ルスタムは、赤ら顔に輝く二つの大きな眼に何ともいえない悦びの色を浮べた。彼はすぐ席を立ち上った。そして、朽葉色の絹の寛衣の裾をゆすって真直に芸人等の前を突きり歩廊に出た。二人は、歩廊の端で出会った。ルスタムは、何も云わず、むずとギーウの肩を掴んだ。ギーウも我知らず手を延してルスタムの左手を執った。
糸杉の葉かげのうつる歩廊の甃《しきいし》を、再び広間の方に歩きながら、やがて、ルスタムが云った。
「思いもかけぬ時に会えたものだ。暫く逗留して行ってくれるじゃろう?」
「いや。……今日は見られる通りひどく性急な使者だ」
「ほほう」
ルスタムは始めて心付いたように、ギーウの埃をあ
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