しく、丁寧に、
「お若い、雄々しい君様の御将来には、大国の王座が約束されているようなものでございます」
 傍に、髭を撫で、注意深く話を聞いていたシャラフシャーが、じろりと、鋭く商人を視た。
「卿は、宝石だけを売っておればよろしい」
 そしてスーラーブに向い、ゆっくり、一言ずつ切って、
「我君、どの玉をお買いなされますか?」
 スーラーブは通一遍の興味で、隋円形の紫水晶と、六七|顆《つぶ》の円長石とを選んだ。
「何と云ったか、その種々に光る石は、美しいことも美しいが少し高価すぎる。考えて置くから、まあ悠くり滞留するがよかろう」
 スーラーブは、立ったまま、代として渡す羊について一言二言つけ加え、広間を去った。

        十六

 これ迄になく、スーラーブは、半月余も宝石売を城に止めて置いた。その間彼は、朝の遠乗をすますと買おうとする宝石の撰択をきっかけにしては、一日の幾時間かを、宝石売とシャラフシャーと三人で過した。そして、好い機会があると逃さず、イランのこと、ルスタムのこと、或はその他の国々の様子を訊く。
 彼が、宝石より何より、それ等の話を聴きたいばかりに、宝石売を止めて置くことは、明かであった。然し理由は、シャラフシャーにさえ説明しない。もとより、スーラーブは、悪賢い旅商人などの云うことを、何処まで信用してよいものか、弁《わきま》えるべきことは知っていた。けれども、意外の事実を知った時に来合せた。とにかく城内の誰より、イランに就ては詳しい話を聞かされると、彼は、どうしてもそれに無頓着ではいられなくなった。スーラーブは、父に対して当途のない感動に燃えていた思慕の心が手がかりを得、実際の纏った力となろうとして頻りにうごめき出したのを感じた。
 このままではいられない、何とかしよう。どうしたらよいか、という執着の強い、絶え間ない囁きが、彼をつけ廻し出した。彼の不安に拘わらず、夜は眠れないほどの苦しさにかかわらず、唯一の考えは、彼の全精力を集中させようとする。スーラーブの心も、体も、魔もののような「どうしたらよいか」という渦の囲りに、離れようとしても離れられない不可抗の力で吸よせられた。彼は、日常の出来事に、溌溂とした注意を分離し、滞りなくそれらを処理する愉快さなどは、まるで失った。事務は皆、シャラフシャーに任せきってしまった。そして、愈々《いよいよ》寡黙に、愈々人ぎらいになった。宛然《さながら》、傷ついた獣が洞にかくれて傷を舐め癒すように、彼は、自分の心とさし向いになり、何かの道を見出そうとする。
 僅か十六七日の間に、スーラーブの相貌はひどく変った。突つめた老けた、心を労す表情が口元から去らなくなった。憂鬱に近い挙止の間々に時とすると、燻《くす》ぶる焔のように激しい閃きがちらつくことがある。
 宝石売が去ったのは、丁度四月の下旬であった。ツランの天候の一番定まりない時である。朝のうち薔薇色に照って、石畳や柱の縁を清げに耀かす日光は、午すぎると、俄にさっとかげって来る。ざわざわ、ざわざわ、不安に西北風が灌木や樹々の梢を戦がせると見るうちに、空は、一面煤色雲で覆われる。広場で荷つけをしているものなどが、急な天候の変化に愕きあわてる暇もない。凄い稲妻が総毛だった天地に閃いたかと思うと、劇しい霙が、寒く横なぐりに降って来る。
 それも一時で、やや和いだ風に乗り、のこりの雫をふり撒きながら黒雲が彼方の山巓に、軽く小さく去ると、後には、洗いあげたようにすがすがしい夕陽が濡燦めき、小鳥の囀る自然を、ぱっと楽しく照りつける。ぞろぞろと雨やどりの軒下から出て来て、再び仕事を取り上げる男達の談笑の声、驢馬が鼻あらしを吹き、身ぶるいをする度に鳴る鈴や、カタカタいう馬具の音などが入り混り、如何にも生活のよろこびを以て聞える。夕暮は、柔かい銀鼠色に、天地が溶けるかと思われる。夜はまた、それにも増して美しい。スーラーブは、近頃、幾晩か、霊気のような夜に浸て更した。
 今晩も、歩廊の拱から丁度斜め上に、北極星、大熊星が、キラキラ不思議な天の眼のように瞬いている。月はない。夜の闇は、高く、広く、無限に拡がってうす青い星や黄がかったおびただしい星は、穏密な一種の律をもって互に明滅するようだ。

        十七

 灯かげのない拱に佇んでいるうちに、スーラーブは、心が星にでも届くように、澄み、確かになって来るのを覚えた。
 天から来る微かな光に照されていると、瞳がなれて、一様な闇の裡でも、木の葉の戦ぎまで見えて来るそのように、スーラーブは、混沌とした動揺の中から、次第に、自分の心持、結局の行方をはっきり覚り、考え出した。快い冷気の中に、今夜は特別な魔力が籠っているのか。彼は、今迄自分が苦しみ悩んでいたのは、ただ、とうに解っていたことを、自分の心持だけで判らないものとしていたことに原因しているのを知った。自分が、衷心で何をしたがり、何を望んでいるか、それは自分に解っている。それを遂げるに方法は一つしかないのも実は、ちゃんとわかっていたのだ。妙な臆病、未経験な若い不決断で、後のものが自分に定った運命だと思いきれなかったばかりに、苦しさは限りなく、止めどのない混乱が来たのだ。スーラーブは、幾日ぶりかで、自分の精神が、明らかな力で働き出したのを感じた。どうでも、自分は父に会わなければ、満足しない。どんな方法でも採ろうと思いながら、唯一の道であるイランに行くこと、その行方が侵入という形をとるという考えに怯じて、躊躇していたことが、今、彼に、ありありと解ったのであった。
 彼は、自分を憫笑するような心持と、切って落された幕の彼方から出て来たものを、猶確かり見定めようとする心持とで、愈々考えを集注した。
「兵力を以て、イランに侵入するということは、いずれ、何時かは、アフラシャブに強制されてでもしなければならないことではないか。怯懦の癖に、野心は捨てることを知らない彼は、これ迄の失敗にこりて、ルスタムのいる間こそ、手を控えていよう。一旦、イランの守りがなくなったら、自分の命が明日に迫っていても、そのままに済さないのはわかっている。その時自分は、否応なしに、戟《ほこ》をとらせられる――然し、父のない後のイランが自分にとって何だ。アフラシャブの道具になって、命をすて、イランを侵略する位なら今、父上のおられる時、自分から動きかけ、機先を制して、その父に会いたさで燃える心を、戦士として、最もよく役立てるのは、当然すぎるほど当然ではないか」
 スーラーブは、解《ほ》ぐれ、展開して来る考えに乗移られたように、我知らず、暗い歩廊を歩き始めた。
「ツランから侵入したといえば、王は、必ずルスタムを出動させるだろう。……よいことがある、自分は、ツランの主将として、イランの主将に一騎打を挑む。父上が出て来られる。この機会を、先人の知らなかった方法で利用しよう。自分は、その人をルスタムと確め、いつかの頸飾りを見せさえすればよい。恐ろしい戦場は、忽ち、歓呼の声に満ちた、親子の対面の場所となるのだ」
 スーラーブの目前の薄暗がりの中には、その場の光景が、明るく、活々と一つの小さい絵のように浮み上った。思いがけない頸飾りを手にとり、愕き、歓び、言葉を失って、自分を見るだろう父。その頭を被う兜の形から、瞳の色まで、ついそこに見えているようだ。自分は何として、その悦び、感謝を表すか。その時こそ、命は父のものだ。力を合わせ、アフラシャブを逆襲するか、或は王に価しないカーウスをイランから追うか、父の一言に従おう。彼としては、恥なき息子として、父ルスタムに受け入れられるだけでもう充分の歓びなのであった。

        十八

 感動? やや空想的すぎる火花が納まると、スーラーブは、一層頭を引きしめ、心を据えて、種々、重大な実際問題を考究し始めた。事実、幾千かの人間を動かし、小さくてもサアンガン一領土を賭してかかると思えば容易でない。然し、計画は、充分肥立って孵《かえ》った梟の子のように、夜の間にどんどん育った。
 黎明が重い薄明りを歩廊に漂わせ始める前に、スーラーブの心の中では、ちゃんと、アフラシャブに対する策から、凡そ出発の時日に関する予定まで出来た。スーラーブは賢い軍師のようにうまいことを思いついた。それは手におえないアフラシャブを、逆に利用すること――自分ではなるたけ痛い目を見まいとするアフラシャブは、サアンガンが立ったときけば、きっと、それを足場にして、利得を得ようとするだろう。イランを、仮にも攻撃すると信じさせるに、サアンガンの軍勢ばかりでは余り貧弱だ。アフラシャブは、サアンガンの兵に混ぜて自分の勢力をイランに送って置けば、何かの時ためになると思うに違いない。ツランの力を分裂させるためにも、万一父の必要によって、その勢いを転用するにも都合がよい。加勢を、無頓着に受けてやろう、という考えである。互に連絡を持ち、敷衍されて行くうちに、策略の全体は、益々確かりした、大丈夫なものに思われて来た。
 スーラーブは、自分の決意と、着想に深く満足した。すっかり夜が明け放れたらしようと思うことを順序よく心に配置し、彼は、誰にも見られず、自分の寝所に戻った。
 ほんの僅かの時間であったが、スーラーブは、近頃になく、四肢を踏みのばし、前後を忘れて熟睡した。
 彼は、目を醒した時、思わず寝過したのではあるまいかと愕いて飛び起きたほど、ぐっすり睡った。スーラーブが、元気で、心に何か燃えているもののあるのは、手洗水を運んで来た侍僕の目にさえ止まった。別に愛想よい言葉をかけたのでもないが、彼の体の周囲には、何処となく生新な威力に満ちたところがあり、傍で見てさえ、知らず知らず信頼を覚える特殊な雰囲気が醸されているのだ。
 スーラーブは自身も、まるで蘇えった心の拠りどころと、前途の希望とを感じた。心を引緊め智を働かせて仕遂ぐべき大事があると、却って心が落付き、静かな勇気が内に満ちる。
 彼は、昨日までの苛立たしげな様子は忘れ、悠くり手を浄め、軽い食事を摂った。そして、朝の挨拶に来たシャラフシャーに、機嫌よく言葉をかけて、一緒に、望楼にのぼった。そこで、彼は始めて自分の計画を打ちあけた。ルスタムを父と知ったことさえ、その朝初めて、明かしたのであった。
 最後まで彼の言葉を黙って聞いていたシャラフシャーは、極要点を捕えた二三の質問を出した。スーラーブは、自信を以てそれに答えた。
 半時も沈思した後、シャラフシャーは、徐に賛成の意味を表した。彼は「それはよい。やるべしです」という風にではなくやや沈み年長者らしい情をこめて、「そこ迄御決心なされたのなら、遣らずにはすみますまい。貴方の血が眼を覚ましたのだ。シャラフシャーがこの上希う唯一つのことは、どうぞはやらず、一人の命も無益にはお使いなされぬように、と云うばかりです」と云ったのであった。彼の言葉つきはどうであろうとも、彼が尽してくれる真心、賢い忠言に変りある筈はない。昼前中二人は、望楼にいた。スーラーブは、アフラシャブの所へ送るべき密使のこと、至急調るべき糧食、武器などのことに就て、相談した。

        十九

 急なことであるにも拘らず、準備は、何も彼も、都合よく運んだ。殊に、スーラーブが、私かに最も不安に感じていた糧食の問題が、案外好結果に解決されると、彼は自分の計画全部に対する吉兆のように喜んだ。
 アフラシャブの許に至急送られた密使も、二十日後、スーラーブの、満足する返答を得て来た。アフラシャブは、スーラーブのこの度の企てと、彼自身が主将として行きたいという希望は、快よく容れる。援軍としては、一万の兵と信用ある五人の副将とを送ろう。但し、若しイランで勝利を得たら、後は、アフラシャブの命を待って事を進めること。万一失敗すれば、サアンガン領は没収する。というのである。
 スーラーブは、内心微笑を浮べて、勝手なアフラシャブの条件を聴取した。彼方から寄来すというフーマン、バーマンなどという戦士は、ツランでは第一流の戦士である。彼等が数年前アフラシャブの
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