の本性というものからは遠い、無縁なものであることが明らかになったような形さえある。
考えれば、祖父は勿論、母も、彼等自身の満足の方便として、自分を自由にした。ちっとも、自分の希いは思ってくれなかった。最も近いそれらのひとびとから、政治的に何ぞというと掣肘《せいちゅう》を加えずに置かない冷血な、蒼白いアフラシャブに至る迄、今のスーラーブには一人として、心の通じ合う、誠を以て尽し合う者はなく感じられた。
ただ、ルスタム、父。その繞りだけは生命がある。真心と自分を牽く光明とがある。けれども、何か異常なことが起り、周囲の絆を断ち切って、真直自分がイランに飛んで行けない限り、その退屈な、石塊のような、生活を続けなければならないのだ。
スーラーブは、太い、激しい息をつき、今、ここから、そのまま双手を翼に変えて、翔び立ってしまいたく思った。時が来る迄に、無意味な日々が、いつとはなく自分の筋骨を鈍らせ、衰えさせてしまいはしまいかと考えると、ぞっとする懼れが心を噛んだ。
万一、機会が来る迄に、もう老年に達したに違いない、父が死ぬことがありはしまいかと思うと、スーラーブは、無言に、辷り、移ろう日かげを掴み、引止めて置きたいほど不安になった。
スーラーブは、広い空の裡に、ただ自分と父だけの命を感じた。見えない、ずっと遠い彼方の端に父はいる。此方の端に自分がいる。父の熾な、雄々しい気勢を自分は夜明けに何より速く暁の光を感じる雲のように感じている。けれども、父の方は、自分がどんな感激に震え、待望に息をのんでいるか、まるで知らない。声もかけ得ず、面も合せ得ないうちに、老た太陽は、堂々と、天地を紅に染めて地の下にかくれてしまうかもしれない。雲には、明日という、大きな約束がある。けれども自分には何があるだろう? 月ならば、沈んだ日の照り返しで、あんなに耀くことも出来る。自分は、奇妙な因縁で、地に堕ちた月だ。未だ成り出でない星ともいえる。日の余光は強くあっても、自分には、大らかに空を運行して、その輝きを受くるだけの、あの宇宙を充す不思議な生き方の力の分け前を得ていないのだ。
冷やかな石の欄に頭をつけていたスーラーブは、ふと、何処かに人の跫音をききつけた。
彼は、思わずきっと頭をもたげ、耳を※[#「奇+攴」、第4水準2−13−65、351−7]《そばだ》てた。四辺のひっそりとした静けさを踏みしめるように、石階を登って来る。スーラーブの、藪かげに獣の気勢をききつけた敏い耳は、それがフェルトの長靴を穿いた足で、丹念に一段、一段と登る一方が軽く跛《びっこ》を引くのまできき分けた。
歩き癖で、来たのは誰だかわかると、スーラーブは、腰架の上で居ずまいをなおし、左手の掌で徐に自分の顔を撫でた。
十三
スーラーブは、何気なく頬杖をついて、空を眺めていた。窮屈な階段を昇り切ったシャラフシャーの暗い眼にぱっと漲る日光とともに、彼の薄茶色の寛衣を纏った肩つきが、くっきり、遠景の大空を画《くぎ》って写った。
シャラフシャーは、上体をのばすようにソリ反り、凝っとスーラーブの後姿を見、大股な、暖か味のある足どりで近づいた。
「我君!」
スーラーブは、始めて気がついたように、シャラフシャーを振向いた。そして幾分、不機嫌に、
「何だ!」
と云った。が彼は、妙な子供らしい間の悪い感情から、真直にシャラフシャーの眼を見られず、さも大切なものが浮いてでもいるように、空の方を横目で見た。
「昨日申上た宝石売が、はや、参りました」
スーラーブは、この親切な、父代りに自分を育てた老人がほんとに云いたいのは、宝石売のことなどではないのを知っていた。彼は「どうなされた、さあ、気を引立てて」と、囁かれるのを感じた。宝石売などは、自分を滅入らせる一方の独居から引出そうとする口実にすぎない。スーラーブはその心をなつかしく感じた。彼は、
「行って会おう」
と云わずにはいられなかった。
「先刻食物を与え、休息させてございます」
「…………」
スーラーブは立上った。そして何処となく乾いた樫の葉と獣皮との匂が、混って漂っているようなシャラフシャーの身辺近く向き変る拍子に、彼は、自分の心にかかっている総てのことを、あらいざらい云ってしまいたいような、突然の慾望に駆られた。
スーラーブは、我知らず、シャラフシャーの、厚い、稍前屈みになった肩に手をかけた。が、何とも云えない羞しさが、彼の口を緘《とざ》した。自分とひとの耳に聞える声に出して「ルスタム」と云うことすら、容易なことではなく感じられる。階段の降り口に来ると、スーラーブはそのまま黙ってシャラフシャーの肩から手を離し、先に立って段々を降りた。
宝石売の男は、広間の隅に、脚を組んで坐っていた。向い側の垂帳が動き、スーラーブと他の三四人の姿が見えると、彼は、慌しく坐りなおし、額と両掌とを床にすりつけて跪拝した。スーラーブは、拡げられた敷物の上に坐った。坐が定まると、宝石売の男は、黒い釣り上った胡桃形の眼を素ばしこく動かし、スーラーブの顔色を窺《うかが》い窺い、仰々しく感謝の辞を述べた。そして、卑下したり、自分から褒めあげたりしながら、荷嚢から、幾個《いくつ》もの小袋を引出し、特別に調えた天鵞絨《ビロード》の布の上に、種々の宝石を並べた。それを引きながら、スーラーブの前に近く躪《にじ》りより、下から顔を覗き、身振をし、宝石の麗わしさ、珍らしさなどを説明する。
スーラーブは、寧ろうるさく、速口の説明をきき流した。けれども、流石《さすが》に、宝石の美しさは、彼を歓ばせた。
小柄な黒い眼の男が、器用にちょいと拇指と人さし指との先につまんで、日光に透し、キラキラと燦めかせる紅玉や緑玉石、大粒な黄玉などは、囲りの建物の粗い石の柱、重い迫持と対照し、一層華やかに生命をもち、愛らしく見える。母のためにと思って、スーラーブが蕃紅花《サフラン》色の水晶に目をつけると、商人は、いそいで別な袋の底をさぐり、特別丁寧に、羊の毛でくるんだ一粒の玉を出した。
十四
彼は、ありもしない塵を熱心に宝石の面からふき払うと、それをスーラーブの眼の前につきつけた。
「如何でございます。これこそ、若い、勲《いさおし》のお高い君様になくてはならない、という飾りでございましょう。御覧なさいませ。ただ一色に光るだけなら、間抜けな奴隷女の頸飾でもする芸です。ほら」
商人はうまく光線を受けて、虫の卵ほどの宝石をきらりと、燐光のような焔色に閃かせた。そのまま一寸光の受け工合を更えると、玉は、六月の野のように、燃る肉色や濃淡の緑、溶けるような空色、深い碧をたたえて色種々に煌《かがや》く。
「この一粒が、百の、紅玉、緑石に当ります。イランの王は、この素晴らしい尊さの代りに、失礼ながら私共の嚢の中では屑同様な縞瑪瑙《しまめのう》に、胎み羊二十匹、お払いなされました」
彼は、狡く瞼も引下げ、悪口でスーラーブに阿諛《あゆ》した。シャラフシャーに、珍らしい蛋白石を手渡していたスーラーブは、その言葉で、俄に心が眼醒めたようになった。彼は思わず男の顔を見なおし、唾をのんだ。そして調子を変えまいと思って、却って不自然な、低い物懶《ものう》そうな声で、
「卿は、イランから来たのか?」
と訊ねた。
「仰《おおせ》の通りでございます。宝石の珍しいものを集め、君様の御意を得ますには、どうしてもイランから東へ、参らねばなりませんので……」
スーラーブは、わざと、見る気もない土耳古玉を一つ手にとりあげて弄った。
「イランに変ったことはなかったか?」
商人は、ちらりと、スーラーブと、スーラーブを見るシャラフシャーとを偸見《ぬすみみ》た。そして、さも滑稽に堪えないという表情を誇張して笑った。
「いや、もう変ったというほどを越した話の種がございます。丁度、私がイランの王廷に止まっておりました時のこと。御承知の通りあのカイ・カーウスと申す方は、神の秤目が狂って御誕生ですから……」何処かの、彼より馬鹿な男が、宴の席で、鳥のように天を翔べたらさぞ愉快だろう。イランほどの大国の王は、誰より先に、蒼天を飛行する術を極めるべきだと云った煽てに乗った。そして、七日七夜、智慧をしぼった揚句、或る朝、臣に命じて、二十|尋《ひろ》もある槍を四本、最も美味な羊の肉四塊、四羽の鷲より翼の勁い鷹を用意させた。
「それで何をしたと思召します?」
宝石売は、膝を叩いて、独りでハッハッハッと大笑した。
「城の広場で、えらい騒ぎが致しますから、私も珍らしいことなら見落すまいと駆けつけますと、王自身が、世にも奇妙な乗物に乗っておられます」
カイ・カーウスは、玉座の四隅に矛先に肉塊を貫いたその途方もなく長い槍を突立て、もう少しで肉に届く、然し、永久に二尺だけ足りないという鎖で四羽の鷹を、一羽ずつその下に繋いだ。
「お小姓が、酒と果物の皿を捧げますと、カーウスは、手をあげて合図をされました。いや、あの時の光景は、観た者でなければ想いもつきますまい。何しろ四方は山のようなんだからでございます。内房の女達まで覗いている。鷹匠は声を嗄して、四羽の鷹を励ましております。王は、得意な裡にも恐ろしいと見え、しっかり、頸の長い酒の瓶を握りしめておられる。気勇立つ鷹を押えていた男が、呼吸を計って手を放すと、昇った、昇った。王は、七日七夜の思惑通り、ふわり、ふわりと、揺れながら、玉座ごと地面の上から舞い立たれました」
十五
「若しそれぎり雲の中に消えてしまえたら、イランの王の腰骨も、あれほど痛い目には会わなんだでございましょうに……」
男は、わざと、溜息をついて、言葉を切った。飛んだと思ったのもほんの瞬きをする間で、十尋も地面を離れないうちに、四隅で吊上げられた玉座は、ひどい有様に揺れ始めた。王は、上で滑ってこの槍につかまったかと思うと、彼方の槍の根元に転げかかり、七転八倒するうちに何時まで経っても届かない餌物に気を苛立てた鷹は、槍の矛先を狙うのをやめて、さんざんばらばらにあがき出した。下では群臣が、拳を振りあげ、声を限りにあれよあれよと叫んでいる。するうちに、一羽の鷹がどよめきの裡でも特に鋭い鷹匠の懸声をききつけたのか、さっと翼を張って下方に向った。拍子に、ぐらりと玉座が傾いたかと見る間に、王は籠からこぼれる棗《なつめ》のように、脆くも足を空ざまにして墜落した。
「その機勢《はずみ》に、王は何の積りか、無花果《いちじく》の実を一つ、確かり握って来られました。汁で穢れた掌を開いて潰れた実をとってあげようとしても、片手で挫けた腰を押え押え、いっかな握りしめた指を緩めようとされず、困ったことでございました。
『あの鷹匠奴! あのしぶとい奴等め!』と息も絶え絶えに罵られましたが、流石に愧じてでしょう。十日ばかりは、お気に入りの婦人でさえ、お傍へ許されませんでした。先刻申上た縞瑪瑙も、実は、煎薬の匂いで噎《む》せそうな臥床の中でおもとめなされたような訳で。――一事は万事と申します」
商人は、意味ありげに、声を潜めた。
「イランは、ルスタムという柱で持っております」スーラーブは自分の内の考えに領せられ、笑いもしなければ、見えすいた追従を悦ぶ気振もなかった。彼は暫く黙ったまま、先刻から手に持ったぎりでいた土耳古玉を目的もなく指の間で廻すと、思い切った風で、
「卿はルスタムに会ったか?」
と問ねた。彼の顔には、目に止まらないほどの赧らみと、真面目な、厳しい表情とが浮んだ。
「今度は、残念ながら会いませんでした。ルスタムは、一昨年、マザンデランで白魔を退治してから、ずっと、シスタンの居城にいるとききました」
「もう余程の年配か?」
「六十度目の誕生は、間違いなく祝われましたでしょう」
「…………」
商人は、流眄でスーラーブの黙っている顔を見た。熱心な集注した様子が、彼を愕かした。商人は、心|私《ひそ》かに、自分の煽てが利いたと想像し、ツランのアフラシャブへよい注進の種が出来たのにほほ笑んだ。そして、一層誠ら
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