ーブは、真直に母の眼を見た。
「母上が誰か忘れられない人からでもお貰いなされたように思われてならないのです」
 彼は、この一言に、重い使命を与えた。若し母が、自然に「まあ! 何を云う!」という顔か、笑いでも洩せば、スーラーブは、自分の想像が的外れであることを認めるしかないと思ったのであった。がターミナは、かくし終せない、心を衝かれた色でスーラーブを見かえした。彼女は、明かに、直は言葉も続けかねたのである。彼は、今更、心が轟き、指先の冷たくなるような思いに打たれた。彼は心を落つけ、礼を失わないように、一歩を進めた。
「不しつけな云いようで、すみませんでしたが、どうぞ悪く思わないで下さい。不断から折があったらと思いつめているので、おやと思ったら押えかねたのです」
 スーラーブは、劬《いた》わるように改めて尋ねた。
「ほんとに、私の想像は当っているでしょうね? 母上、そのお返事なさって下さい」
 ターミナは、彼の印象に永く遺った重々しい感情をこめた動作で左手を額にあげ、静かに、そこを抑えた。
「そんなに心にかけておいでだったのか」
「――私ぐらいの年になって、父の名を知らず、その人を愛してよいのか、憎んでよいのかも判らないというのは、楽な心持ではありません。……云って下さるでしょう? 今日迄持ち堪えたら、母上の義務はすんでいるでしょう?」
 スーラーブは、なにか黎明の日の光に似た歓ばしい期待が、そろそろ心を溶かすのを感じた。胸の中では「吉報! 吉報!」と子供らしい叫びをあげて動悸が打つ。彼は、単純に云った。
「父上は、どうされたのです? とにかく愧《は》ずべき人間でないのだけは確かですね」
 しかし、母は、彼の亢奮をともにせず、一時に甦って来た過去の追想に包まれきったように打沈んで見える。彼は、同情を感じた。
 そして、自分も地味な心持になり方法を変えた。
「こうしようではありませんか、母上。今迄隠して置かれたのには何か深い訳があったのだろうから――私が、ききたいことだけを問《たず》ねましょう。簡単にそれに答えて下さい」

        九

 何から先に問《たず》ねるべきなのか、スーラーブが手がかりを求めているうちに、ターミナは、俯向《うつむ》いていた頭を擡《もた》げた。そして、低声に然し、はっきり云った。
「それには及びません。私が話しましょう。卿がこの飾りに目をつけた時に、ああ、到頭今日こそは、と思いました。今日これをつけていたのは……」
 ターミナは云いよどみ、何ともいえず趣の深い、仄かな含羞《はにかみ》の色を口辺に浮べた。
「――十九年昔の今日、卿の父上がこの城へ来られたのです」
 スーラーブは、厳粛な心持になって問ねた。
「今、その人は、どうしているのです? 生きているのですか、死んでしまったのですか?」
「生きておられるでしょう。生きておられることを祈ります。あれほどの方が、死なれて噂の伝わらない筈はない」
「そんなひとなのですか」
 彼は、見えない、偉《おお》きな何ものかが、心に迫って来るのを覚えた。
「――誰です?」
「…………」
「ツランの人ですか?」
「ツラン人ではありません」
「まさか、この領内の者ではあるまい。――」
「イランの人です。卿の父上は……」
 ターミナは、大切な守りの神名でも告げるように、恭しく、スーラーブの耳に囁いた。
「卿の父上は、イランのルスタム殿です」
 スーラーブは、始めて自分が、天の戦士といわれている英雄の子であることを知った。ルスタムの名を聞いて畏れない者は、人でない。いや、アザンデランの森の獅子は、ルスタムの駒の蹄の音を聞いて、六町先から逃げたとさえいわれている。
 十九年昔、ルスタムは、サアンガン附近で狩をし、野営しているうちに、放牧して置いた愛馬のラクーシュを、サアンガンの山地人に盗まれた。ルスタムは、この城迄その捜索を求めて来た。ターミナは、その時十八歳であった。表の広間は、勇将を迎えて、羯鼓《かっこ》と鐃※[#「金+(祓−示)」、第3水準1−93−6、345−9]《にょうはち》の楽が絶えなかった。内房には、時ならぬ春が来、ターミナは、不思議な運命が与えた恩寵に、花の中での花のように愛らしく、美しく見えた。一箇月後、ルスタムは、再びラクーシュに騎って山を踰《こ》え、イランに還った。スーラーブが生れた時、ターミナと父とは、異常な宝を、嫉妬深い二十年イランと干戈《かんか》を交えているツランの覇者、サアンガンの絶対主権者であるアフラシャブの眼から隠すに必死になった。星のような一人の男児が、誰の血を嗣いでいるか知ったら、アフラシャブは片時も生しては置くまい。また一人の子もないと聞いたルスタムが、自分の懐から幼児を引離すまいものでもない。
 父と娘とは、心を合せ、策を尽して、スーラーブを匿《かく》まった。無邪気な唇が、どんな大事を洩すまいものでもないと、彼にさえ、父の「チ」の字も云わなかったことをスーラーブは始めて知ったのであった。

        十

 話し終ると、ターミナは、殆ど祈願するように云った。
「それで卿がルスタム殿の息であるのを知っているのは、この世の中で、私と、卿と、二人になりました。どうぞ今迄の心遣いと、尊い血とを無駄にはして下さるな。サアンガンの王の王を作ろうという希いは、サアンガンの女が持つことを許された最大の祈りです」
 彼女は、深い吐息をつき、後の坐褥にもたれかかった。
「ルスタム殿を父に持ったとわかったら、卿も母を恨んではくれまい。――あれほどの夫を持ちながら、永い一生にただ一度、会ったばかりで死ななければならない私が、卿をミスラの子だと云う心持は……嘘や偽りではありません」
 スーラーブは、期待した朗かな喜びの代りに、何とも知れぬ圧迫を心に感じるのに驚いた。彼は当途のない亢奮に苦しみ、馬に騎って、野外に出た。
 スーラーブは、暗くなる迄春の浅い山峡を駆けめぐり、細い月をいただいて、黒い城門をくぐった。
 翌朝、スーラーブはだんだん深い水底からでも浮上って来るような、憂鬱な気持で目を醒した。彼は、枕に頭をつけたまま瞳を動かして四辺を見た。馬毛織の懸布や、研いだ武器が、いつも見なれた場所に、見なれた姿でかかっているのが、妙に物足りなく寥しい心持を起させる。
 疲れていたので、幾時間かぐっすり眠ったのに、目が覚めて見ると何処にも熟睡で心を癒やされた爽やかさがなく、依然として、昨日と今日とは、きっちり、動きのとれないかたさで心持の上に結びついている。
 僅の間でも眠れたのが却て不思議な心持さえする。珍らしく、スーラーブは、目を醒してから後暫く床の上に横わったまま、まじまじと朝日の輝く室内の有様を眺め、やがて真面目すぎる眼つきで褥《しとね》を離れた。侍僕が、気勢をききつけ水と盤とを持って入って来た。
 手と顔とを浄め食事に向うと、シャラフシャーが入って来た。彼はスーラーブと向い合う敷物の上に坐り、種々な業務の打合せをする今朝、スーラーブは、まるで心が内に捕われた、無頓着な風で、シャラフシャーが述べる馬の毛刈りについて聞いた。彼は、もうそろそろ馬の毛刈りをせずばなるまいが、もう二三度|霰《あられ》がすぎてからがよかろうと云うのである。スーラーブは、結局、どちらでもよいのだという風に、
「よしよし、それで結構だ」
と云った。そして、ろくに手をつけない食膳を押しやって立ち上った。
「今日は、少し用事があるから、皆には卿の指図でよろしくやって貰おう」
 彼は、数間内房に行く方角に向って歩き出した。が急に気をかえたらしく、シャラフシャーを顧た。
「面倒でも、卿に今日は内房に行って貰おう。シャラフシャー、私は疲れているので御挨拶に出ませんと、伝えてくれ」
 シャラフシャーが立ち去ると、スーラーブは、居心地よい落付き場所をさがすように、ぶらぶら室じゅうを歩き廻った。
 けれども、いつ外から挙げられまいものでもない彼方此方の垂幕が気分を落付かせない。遂に、彼は、城の望楼を思いついた。あそこなら誰も、丁寧な無遠慮で自分を妨げる者はないだろう。

        十一

 稍々疲れを感じるほど、長い、薄暗い、螺旋形の石階を登り切るとスーラーブは、一時に眩ゆい日光の海と、流れる空気との中に出た。ここは、まるで別世界のようだ。音もせず、空に近く明るい清水のような空気に包まれて、狭い観台の上では、人間が、天に投げられた一つの羽虫のように、小さく、澄んで感じられる。スーラーブは、始めて吸うべき息のある処に来たように、心から、深い息を吸い込んだ。そして、胸墻《きょうしょう》の下に取つけた石の、浅い腰架に腰を卸した。下を瞰下《みおろ》すと、遙に小さく、城外の村落を貫き流れる小川や、散らばった粘土の家の平屋根、蟻のように動く人間や驢馬《ろば》の列が見える小川の辺りでは、女が洗いものでもしているのか、芽立った柳の下で、燦く水の光が、スーラーブの瞳に迄届いた。遠く前面を見渡すと、緩やかな起伏を持った丘陵は、水気ゆたかな春先の灌木に覆われ薄|臙脂《えんじ》色に見える。その先の古い森林は、威厳のある黝緑《ゆうりょく》色の大旗を拡げ立てたように。最後に、雪をいただいた国境の山々が、日光を反射し、気高い、透明な、天に向っての飾りもののように、澄んだ青空に聳え立っている。
 肱をつき濁りない自然に包まれているうちに、スーラーブの心は、白雲のように、音もなく、国境の山並の彼方に流れた。そして茫漠としたイランの空の上で、降り場所を求めるように円を描いて舞う。けれども、彼の心を、地上から呼びかけて招いてくれるものもなければ、落付き場所を教えてくれてもない。スーラーブは、父の名を知らなかった時、それさえ解ったら、どんなにさっぱり、心強いことだろうと思い込んでいた。ところが、事実は、正反対になった。まるで想像も、しなかった辛さが心に生れた。それは、偉大な戦士としての父に対する限りない尊敬、愛、帰服の心とともに、ここに切りはなされてぽっつり生きなければならない自身を、ひどく詰らなく、無意味に感じるという苦しさなのである。スーラーブは、昨日迄の生活を、無意義極まるものとして、考えずにはいられなかった。若し、何かの見どころがあれば、それは、ただ今後の生れ更った自分の生活に何かの足しになるものであったという理由にすぎない。彼の若々しい熱意や、憧憬に燃る心は、あのルスタムを父と知ってから、再び、元の眠ったような生活には思っただけでも堪えなかった。どうかして、ルスタムの子にふさわしい生き方がしたい。父と倶にあれば、たとい自分が末の末の数ならない一人の息子であったとしても、前途には、もっと希望と、男に生れた甲斐のある約束があった筈だ。
 現在のままの境遇では、父に会うという一事さえ、容易に果せない。小さいツラン属領の城番で、獣しかいない山野に囲まれ、生活を変えるとしても、何の根拠によることが出来よう。スーラーブは、死んだ祖父や母に対し、始めて、不満と、絶望的な皮肉とを感じた。祖父が、習慣に背いて、自分を父の手に渡してくれなかった理由、下心が、賤しく考えられた。スーラーブは、眉を顰《ひそ》めて、目の下に見える、堅固な城の外廓と、二重の城門とを瞰下した。それ等は皆、祖父の代に、改築されたものであった。祖父は、あの厚い城壁と、要心のよい二重の扉で自分をこの中にとり籠めて置く積りだったのだろうか、または、小さな威厳という玩具を与えて、自分を一生、サアンガンの嬰児にして置こうとしたのだろうか。

        十二

 母が遂に、父の名を明かしたのは勿論、それを聞いたら自分が落付き、現在の生活に一層満足するだろうと思ってのことであるのは、スーラーブによくわかった。父との短い、思い出の深いだろう恋を考えれば、その心持にも同情されるものがある。
 然し、気の毒なことに、彼はもう自分が、彼女一人の、スーラーブではなくなったことを感じた。寧ろ女らしい姑息さで、自分を動く、大きな運命の輪から引きはなしてくれたことで、却って、自分
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