言葉の全体の意味は解らなかった。ただ、何か大切な訳のあるらしいことだけは感じた。その特殊な重大さは、全く自分に関係していることに違いないのだが、そのことに就いて、何も知らず、告げられもしないということが、一層、祖父の言葉を恐ろしく思わせる。
 祖父の代りに、今度はシャラフシャーを指導者として、スーラーブの日常は、再び、従前通りに運ばれ始めた。元と違う点といえば与えられる訓練が益々秩序的になったことと、今迄無頓着に語られていた昔噺や英雄の物語が何処となく教訓的な意味を添えて話されるようになったという程度であった。
 然し、スーラーブの内心では、著しい変動が起った。祖父の言葉をどうしても忘られない彼は、次第に自分の境遇に特別の注意を向けるようになった。
 城全体の生活が女ばかりの内房と、男ばかりの表の翼とにきっぱり二分されているため、その間に、家族とか夫婦とかいう生活の形式を、まるで知らなかった彼は、シャラフシャーのする物語の中から種々な疑問を掴み出して来た。
 スーラーブは、傍に坐って、小刀を研ぎながら話をするシャラフシャーに、子供らしい遠慮を以て訊いた。
「ねえ、シャラフシャー、この間卿、祖父様はナディーというひとの子だと云ったろう?」
 シャラフシャーは、仕事から注意を奪われず真面目な声で答える。
「左様です」
「――スーラーブの父上は何という名?」
 シャラフシャーは、答えない。

        五

 四辺には、刃物が砥石の上を滑る音が眠たく響く。
 スーラーブは、シャラフシャーが沈黙しているのを知ると別な方面から、問いを進めた。
「シャラフシャー、父上のいないのは、悪いことなのかい?」
「悪いことではありません。祖父様のおっしゃったのは」シャラフシャーは、刃物の切味を拇指の腹で試し、正直な、心遣いの籠った眼で、小さく胡坐《あぐら》している自分の主人を見た。
「貴方が、一生懸命、戦士の道を修業して、サアンガンの王のまことの父である大神ミスラに見棄てられないようにしなければならぬ、ということであったのです」
 スーラーブは、暫く腑に落ちない顔をして黙った。何処かに、はっきりしない処のあるのは感じる。けれども子供の頭脳は、そこに条理を立てて、もう一歩迫ることが出来ない。黙って、考えている積りのうちに、彼の纏布を巻いた小さい頭の中には、ぼんやりと、昼間の狩の思い出や、明日の遠乗の空想が湧き上って来る。シャラフシャーは、彼の恍惚《うっとり》とした口つきと、次第次第に面を輝かせる生活の楽しさとを見逃さない。スーラーブは、巧にシャラフシャーが持ち出した新しい話題に全心を奪われ、数分前の拘《かかわ》りを、さらりと忘れてしまうのであった。
 然し、それで紛れきってしまうには、彼の受けた感銘が余り強すぎた。ふと、思い出し、急な不安を感じ、スーラーブは同じ問いを母にも持ち出した。
 彼は、本能に教えられ、シャラフシャーに対する時よりずっと甘えて、直截に、
「母上、スーラーブの父上はどうしたの? 祖父様はこわい顔をして『父のない息子を見よと云われるな』とおっしゃった。父上は始めっからいないの? 死んだの?」
と、迫る。
 始めて、この問いを受けた時、ターミナは、スーラーブが思わず、喉をゴクリといわせたほど、驚きの色を示した。彼女は、スーラーブの傍に躙《にじり》より、手を執り、誠を面に表しながら、彼は今も昔もサアンガンに唯一人の偉い王になるため、天から遣わされた者であるということ、その命令を成就させるために、母もシャラフシャーも心を砕き、神への祈りを欠かしたことはないのだ、と話して聞かせた。
 スーラーブは、凝っと母の顔を見つめ、判り易い言葉で云われることをきき、半信半疑な心持と、畏れ、感激する心持とに領せられた。納得するしないに拘らず、母の熱の籠った低声の言葉や、体、心全体の表情が、幼い彼を沈黙させずに置かない真剣さを持っていた。
 十五六歳になる迄、スーラーブは、折々その質問を繰返して、母やシャラフシャーを当惑させた。けれども、だんだん質問の仕方が実際的な要点に触れ、返事を一層困難にするようになると逆に、彼の訊ねる度数が減った。青年らしい敏感が、そんな問を、露骨に口に出させなくなった。彼は、自分にそのことを訊かれる母の心持も同情出来るようになったし、少年時代から一緒に暮しているとはいっても、一人の臣下にすぎないシャラフシャーに自分の父の名を聞く、一種の屈辱にも堪えなくなって来たのである。
 彼は、黙って、鋭く心を働かせ、自分という者の位置を周囲から確め始めた。種々な点から、彼は、シャラフシャーが、全く自分の出生に関しては与り知らないのも判った。家臣等の自分に対する感情は、いささかもその問題には煩わされていない純粋なものであるのも知り得た。

        六

 晴々として快活な時には、愉快な無頓着でスーラーブは、自分の運命を、稍々《やや》滑稽化しさえした。もうミスラの子というお伽噺《とぎばなし》に信仰を失っていはしても、まあよい時が来る迄神の息子という光栄を担っていよう。誰が父であるにしろ、自分が誰からも冒されないサアンガンの王であるには違いないのだ、と気安く淡白に思う。然し、折にふれて激しい憂鬱が心を圧し、彼から眠りを奪うことがあった。自分の誕生というものに最も忌わしい想像がつきまとった隠されている父の名は、或は、実に恥べき人間と場合とに結びついているのではないだろうか。自分が生れたのを母は、怨みで迎えたのではあるまいか。そう思うとスーラーブの、青年らしい生活の希望は打ちのめされた。
 彼は、見えない自分の血の中に、洗っても洗っても落ちない何者かの汚染が滲み込んでいそうに感じた。何時か自分が、我にもない醜悪さを暴露させるのではあるまいか。生きていることさえ恐れなしとはいえない。
 そのような疑惑に苦しめられる時、スーラーブは、時を構わず、馬に鞭をくれ、山野を駆け廻った。彼を、致命的な意気消沈から救うのは、僅に一つの反抗心があるばかりであった。
「よろしい。母に自分を生ませた男が、最も卑劣な侵略者なら構うものか、そうあらせろ、自分が、母と自分の血を浄めて見せるぞ。賤しい男の蒔いた種からどんな立派なサアンガンの糸杉が生えたか、見せて遣ろう」
 反対に、何ともいえない懐しさと憧れとが、天地の間に、自分という生命を与えた父に対して、感じられることもある。
 深い、生活の根柢に触れるこれらの感情に影響され、スーラーブは年に合わせては重々しい、時に、憂を帯びた威で、見る者を打つ青年になった。
 彼の日常は、戦士の理想に叛《そむ》かなかった。簡素で、活動的で、女色にも耽らなかった。サアンガンの統治者としての声望は、若い彼として余りあるものがあった。けれども、心の裡に深く入り、喰い込んでいる愁を彼と倶に感じるものは、恐らく誰一人いなかったろう。スーラーブは、自分の武勇や心の正しさなどというものが、一方からいえば、皆悲しい一つの反動であるのを知っていた。彼は、生長すればするほど、祖父の臨終の一言を畏れた。たとい運命が、自分の前に何を出して見せても、動じない自信を持ちたいばかりに、男を練る唯一路である戦士の道を励んだといってよい。
 彼が、若々しい衝動に全心を委せ切れず、いつも、控え目勝ちであることも、決して彼の本心の朗らかな悦びではなかった。
 若し前途の不安と、父の名を知る時に対する一種宗教的な畏怖がなければ、スーラーブは、躊《ためら》わず愛人の地位に自分を置いたであろう。
 父を知る日を境にして、自分の一生はどうなるのかと思うと、彼の情熱は鎮まった。あとに、尽きない寂しさに似たものが残る。
 自分の運命を真面目に考えるようになってから、スーラーブは、彼の最善を尽して、来るべき一日のために準備していたのであった。

        七

 その朝スーラーブは例によって、何心なく母の処へ挨拶に行った。ターミナは、優しく彼を迎えた。そして、侍女に命じ、わざわざ新しく繍《ぬ》ったという坐褥を出してすすめたりした。スーラーブはいつもの通り、次第に麗かになって来た天候のことや、この春はかなり仔羊が生れそうなこと、前日の羚羊《かもしか》狩の模様などを話した。彼は、近いうちにチンディーの宝石売が来るという噂を伝えた。
「母上にも何かよいのを見繕いましょう。この前はいつ来たぎりか、もう二年ほどになりますね。美しい紅色の瑪瑙《めのう》なんかは、いつ見てもよいな」
 ターミナは、遠慮深そうに、
「もう派手な宝石でもありますまいよ」
と云った。
「女達のに、さっぱりしたのを少しばかり見てやっておくれならさぞ悦ぶことだろうけれど」
「女達も女達だが……」
 スーラーブは、何心なく顔を近よせるようにして、母の胸元を見た。
「どんなものをしておられます? いつもの卵色のですか」
 彼にそう云って覗き込まれると、何故か、ターミナは、品のよい顔にうろたえた表情を浮べた。そして、さりげない風で、低く、
「別に見るほどのものでもありませんよ」
と云いながら、落付いた肉桂色の上衣の襞の間に、飾りを隠そうとした。が、頸飾りは、彼女の指先をもれ、スーラーブの目に、鮮かな碧色の土耳古《トルコ》玉がかがやいた。手の込んだ細工の銀台といい、立派な菱形に截《き》った石の大きさ、艶といい、調和のよい上衣の色を背景に、非常に美しく見える。彼は、母が寧ろ誇ってそれを見せないのを不審に思った。
「素晴しいものではありませんか」
 ターミナは黙って、自分の胸元に目を注いだ。
「余程以前からあったものですか? 一寸も見なかった」
「気がおつきでなかったのだろう」
 スーラーブは、何だかいつもとは調子の違う気のない母の応答ぶりに注意を牽かれた。何処となく堅くなり、強て興味を唆《そそ》るまいとし、一刻も早く話題の変るのを希っているようにさえとれる。彼は宝石の面に吸いよせられていた瞳を辷らせて、母の様子を見た。ターミナは、自分も一緒に珠の美しさに見とれたように、下目はしているが、顔には、張り切った注意と一寸した彼の言葉にも感じそうな鋭い神経があらわれている。――
 スーラーブは、膝の上に肱をつき、屈《かが》んでいた体を起した。急に湧き上った疑問に答えて、彼の頭は、種々の推測を逞くしだした。第一、この地方で土耳古玉は、珍奇な宝玉に属する。母の意味ありげな素振は、何か、この珠の由来に特殊な事情のあることを告げているのではないだろうか。母のこれ迄の生涯で、若し特別な出来事があったとすれば、それは、自分の何より知りたいこと、知りたい人に、連関したものでなければならない。
 スーラーブは、胸の底に熱いものの流れ出したのを感じながら、凝っと、俯向《うつむ》いている母を眺めた。
 愈々時が来たのか? 余り思いがけない。あんなに隠され、かくまわれていた秘密、或は神秘と呼ぶべきことが、これほど偶然の機会で明されるのかと思うと、スーラーブは、妙に、信じかね、あり得べからざることのように感じずにはいられない。

        八

 考えているうちに、彼の心には次々に、新な疑問が起った。かりにも母が、その飾りを身につけていることが、却って、スーラーブを、思い惑わせたのである。万一、自分の想像が当り、見知らぬ父と関係あるものなら、彼女がそれを頸にかけるという一事だけで充分、その人の価値と、母のその人に対する愛を示されたということになる。ところが、案外の勘違いで、母のまごつきは、その宝石が、娘らしい物欲しさから、祖父の許しを得ず、そっと織物とでも換えたものだという、思い出から出たのかも知れない。
 いつ? 自分だけの考えに沈み、スーラーブは心付いて、四辺の沈黙の深さに愕《おどろ》いた。
 何とか口を開こうとした拍子に、彼は一つのよいことを思いついた。彼は、要心し、母を脅かすまいためわざと軽く、冗談めかして、
「ねえ母上、私には、その土耳古玉が、不思議にいろいろのことを考えさせますよ」
「――どうしてでしょうね」
 スーラ
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