の音がした。続いて、二打ち、三打ち、四打ちめの羯鼓に合わせ、ツラン軍は足を踏み轟かせ、裂けるような鬨《とき》の声をあげた。空気の顫えが鎮まらないのに、イラン軍で、熱いような太鼓を打ち出した。急調に、じっとしていられないように、全軍が鯨波をあげた。蒼白い、神経質な表情を湛えていたスーラーブの顔に、燃えるような輝きが出た。彼は鋭く眼を配り、左右を見ると、手綱をかい出し、とっとっとっと、一騎で、両軍の中央に騎り出した。亢奮が感染し、乗馬は、敏感に鼻翼を震わせては、深い息をする。スーラーブは、轟きの余波の消えるのを待って、高く、馬を前脚で跳上らせた。彼は、鉾を右手に振かざし、大きな輪乗りで敵の前面を騎り廻した。ツラン軍から熱烈な喊声が湧いた。スーラーブは、その音波を劈《つんざ》く高声で敵に叫びかけた。
「イランの王、カイ・カーウス! 出会え、出会え、流されたツラン人の血は卿の血で償おう!」
 両軍に、明かな動揺が伝わった。誰か出て来るか。スーラーブは、尚も輪騎りをしながら、ツラン幾千の眼が、煌いて、自分の背後から前方に瞠られているのを感じた。彼は、カイ・カーウス自身の出ないのは知りきっていた。彼は、甲冑の奥に母から貰った頸飾りのあることを自分に確めた。微かに戦慄が起るほどの緊張で、而も頭は澄んで、スーラーブは、敵の前面を見渡した。

        三十八

 この時、ルスタムは、まるで、これ迄と異う地味な目立たない武装でイラン軍の後方にいた。彼は、特殊な感情を以て、一騎乗り出して来たツランの若者を見た。しゃんと武装を調えたところは、昨夜、見た同じ者とは思えなかった。多勢のツラン兵の前に立ってひとりでに比較されて見ると、彼の眼には、何処か若者の相貌に、イラン風なところがあるようにさえ感じられた。ルスタムは、灰色の馬を歩ませて、もっとよく見える前列の傍に出た。
 今度そこに来たら充分視ようと心構えした時、スーラーブは、ぴたりと馬を停め、高らかに大胆な挑戦をしかけたのであった。
「流されたツラン人の血は」という一言をきくと、ルスタムは、むかつく嫌な衝動を感じた。昨夜のことは誰一人知っている者はない。この文句の正しい意味のわかるのは自分ばかりだろう。せっかく抱いて行った優しい思いが失望に終った上、まるで偶然で避難かった、自分でも厭々した殺傷が、挑戦の口実に物々しく利用されたのをきくと、ルスタムは、威勢よい若者に、焦々した憎悪を感じた。当然自分が応えるべき位置にあるという責任感と、先天的な好戦慾に駆られ、ルスタムは、出陣の時自分の申出した約束にも拘らず、信念に満ちた風采で、両軍の中央にのり出した。
 彼は、イランの前面を通るとき、ギーウが、面覆いの間から、驚愕の色を顕わして自分を見たのを認めた。老人の意地の現われた眼つきで、ルスタムは、真直にスーラーブの前に騎りつけた。そして、好意のない脅しつけるような声で云った。
「王に戦いを挑まれたのは卿か! 王自身が出会われるには、卿の年が若すぎる。儂が相手をしよう」
 ルスタムの露骨な青二才奴、という毒々しさをまるで感じなかったように、ツランの若者は真面目に、偽の無さそうな眼で、ルスタムを瞶めた。そして、作法に従い、鉾を鞍の前輪に立てて、云った。
「年は腕の力できめよう」
 二騎は、更に広い場所へと騎ったが、その間、ツランの若者は、ルスタムに不快を与えるほど、彼の顔その他を注意して幾度も幾度も此方を視た。眼に何か絡みつくような、ねつい表情があり、ルスタムのやや粗暴になっている感情にうるさい思いをさせる。空地の中頃に来、空一杯降注いで来るような両軍の鬨の声の裡に、ルスタムはイラン勢を背に負い、ツランの側にツラン人は立った。ルスタムは、偉きな躯を鞍の上で一ゆすりし、鉾とりあげ「さあ! 勝負!」と、それを持ちなおした。ツランの若戦士も、自分の鉾を執りなおした。がルスタムの顔ばかり見、さし迫った声で、
「卿はルスタムではないか?」と囁くように問いかけた。ルスタムは、殆ど返事をせず打ちかかるところであった。小癪な若者奴! ルスタムならどうしようというのだ。老人の俺を狙って功名しようというのか。昨夜、誰が、どんな気持で貴様を一目見たいと出て行ったか。生意気な浮薄な貴様に解りもしまい! 彼は、恐ろしい目をしてスーラーブを睨み据た。「余計な穿鑿《せんさく》は勝ってからにしろ。ルスタムが貴様の相手をすると思うか」憤りと悲しみと混り合って突き上げて来たルスタムは、唸りを立てて鉾を打ち下した。ツランの若者は、すばやく馬を躱《かわ》して左手から、ルスタムに攻めかけて来た。

        三十九

 怒ったルスタムの鉾先は猛烈を極めた。暫く、スーラーブは、やっと身を躱した。彼は、その戦士が老人であるのを認めた時、既に心の平衡を失いかけた。あいにく、兜とその下の面覆いで顔全部は見えず、従って、母ターミナにきいて来た眉の上の大黒子などの有無は見ることさえ出来なかった。けれども、父の他にイランにこの年配の戦士が在ろうか。スーラーブは、心も心ならず、屡々顔を見、遂に、万一を恃《たの》んで訊いて見た。むごく撥ねつけられ、その精神の沈みがもとに整いもせぬうち、相手は、まるでその質問に煽られたように打ちかけて来る。
 一度二度、スーラーブは、寧ろ、馬の機敏な本能で、敵の打撃から免れ得た。やがて彼も力を凝し、剽悍になった。ルスタムでないなら、早く片付け目ざす人に出会おうと、燃える力が、若いスーラーブの筋骨に、筋金入りの威力を与えた。蕁麻《いらくさ》の生えた地面は、駈け寄り、引き分れる二頭の馬の蹄の下で、濛々と塵をあげた。ぎらつく日光を掠めて、イラン戦士の鉾が飛んだ。さっとくぐりぬけ、ツランの若者が、鉾をふりかぶった。蹄の入り乱れた音の間にぶつかる鉾が、尾の長い、凄じい響を立てた。十度に一度、何方かの鉾が、敵の体か、乗馬に触れた。人間は、歯を喰いしばって呻き、その打撃を堪えた。馬は、恐怖して嘶き、跳上り、暫く乗手を忘れて、暑い平地を彼方此方に走った。イランの戦士の顔からも、ツランの若者の顔からも、汗は雫になって流れ出した。荒い互の呼吸の音が、鳥の羽搏のように聞えた。一騎討ちは、いつ終るともしれなかった。両軍の将卒は、固唾をのんで成りゆきを視守った。特にツランのバーマンは、イラン戦士の普通とは逆な鉾の持ち方で、すぐルスタムと知った。彼は粘液質な顔に、激しい動乱の色を浮べ、フーマンのところに駆せつけた。フーマンもこの前の戦いの経験で心づくところがあったと見え、すぐ列を離れ、彼と会った。彼等は一言も云わず、眼を見合せただけで、意味を諒解した。そのまま並んで、一騎打を視た。戦士等の動作には、劇しい疲労が見え始めた。馬も、全身汗にまびれ、脇腹は破れそうに波打っている。すると、イラン勢から、一騎、逞い戦士が列を離れ、また新な勇気を盛返して鉾を振ろうとする二人の戦士等の方に進んだ。バーマンはそれを認めると、急いで馬をけり、其方にかけつけた。激烈な、この一騎討は引分かれ、また明日勝負を争うことになった。
 大部隊の接戦で、ツラン軍は九十余人の死者を出した。イラン勢も、ほぼ同数の者を失ったが、重傷者は、却ってツラン方より多いという噂が伝わった。日没前に、第一日の合戦は罷められた。スーラーブは、疲れきり、甲冑の下で処々皮膚をすりむかれて、天幕に戻った。侍者に、膏でこすらせ、寝台に横わりながら、彼の少し血走った眼は心に休みない或る考えで光り、じっと天幕の天井に止まった。スーラーブには、どうしても、今日の相手が腑に落ちなかった。あれだけ勢い激しく打ち合って、びくともしない、あの年の戦士が、ルスタム以外にイランにはいるのだろうか。始めての挑戦に直応じて来たことや、乗馬、甲冑がまるで華々しくない灰色ずくめであったことなどを考えると、或は全く父ではないのかも知れない。

        四十

 考えに耽りながら躯をこすらせ、食物を食べ終ると、スーラーブは、侍者にフーマンを呼ばせた。フーマンは、昼間の合戦になかなか油断なく立ち廻った。彼は、寛衣にかえ、酒の色を顔に出して入って来た。卓子についているスーラーブを認めると、彼は、陽気な風で、手を延ばした。
「どうです! 見事な腕を見せて貰えましたな。お疲れでしょう。儂は今、兵卒共の慰労に一廻りして来たところだが――」どっかりとスーラーブの傍に腰を卸した。
「バーマンは?」
「さあ」
 スーラーブは、同じアフラシャブの腹心でも蒼白い無感動のバーマンより、フーマンロサーに人間らしい天性の率直さを感じていた。フーマン自身もそれを知り、何か状態が複雑になりかけると、自分の単純な激情に駆られる性質を恐れるように、冷静な、狡智に長《た》けたバーマンを傍に持とうとする。今、バーマンのいないこととて、スーラーブに希わしい機会なのだ。彼は、フーマンに盃をすすめ、自分も一啜りしながら云い始めた。
「まあ、とにかく今日は余り成績も悪くなかったようだが。――一体、あのイラン方の戦士は誰かね」
 フーマンは、赧い顔を手の平で一撫でし、酔いが発したように、卓子にがっくりよった。
「さてね。儂にも判りませんな」
「卿などは、幾度もイランの将等と、手合せしているのだから判らないとはいえない。――誰だろうな。――また、明日のこともあるから訊くのだ」
「ふうむ。――バーマンに訊いたら判るかもしれない」
 フーマンは柄になく張のない調子で呟くように云った。そして、さも酔漢らしく頭をふりあげスーラーブに云った。
「どっち道、敵の端くれだから、まあ腕を振って片づけて下さい。今日の勢で行けば、何! 雑作ない。卿には若さという味方がついているもの。儂ももう一度、こんな胸を持って見たいな」
 そして、フーマンは、スーラーブのむき出しの胸を好もしそうに眺め、女についての戯言を云った。スーラーブは、フーマンが、酔いに紛らせ内心では確かり云うべきことの選択をしていると感じた。酒が彼の唇を自由にしているだけ、楽に、要点をそらして下らない題目にすべり込める。
 明日の合戦に、どうしようという考えで、彼は黙ってしまった。単に一人の敵として見ても、イランの戦士は剛の者であった。力量その他が、スーラーブに或る懼れを抱かすほど匹敵していた。今回の経験で見ても、最後に勝負を決するものは腕の違いでなく、精力と運だけの問題とさえ思える。ルスタムでないなら、スーラーブは、この敵に命は遣りたくなかった。遣らないためには殆ど天運が自分の味方になってくれなければならない。スーラーブは、フーマンが何時の間にか、自分の傍を去ったのさえ知らなかった。彼は一人で苦笑いを洩した。そして、疲労を恢復させる必要から、すぐ寝台に横わった。が、眠りはなかなか来ず、漠然とした不安が、夜の幕営の裡で彼の心にのしかかった。戦場で、父とめぐり合うということは、彼が空想で描いたほど真直に工合よくは行かないらしいことが明かになって来た。スーラーブは、肌身はなさず持っている母の記念の頸飾を、片手で触った。不意に、サアンガンの城のことや、シャラフシャーのことや、遠い祖父の臨終のこわかった記憶が、きれぎれに通り過ぎた。彼はそのまま寝入った。

        四十一

 翌朝は、晴てはいたが雲の多い天候であった。薄い雲母でも張ったようにむらのない白雲が、空一面|蔓《はびこ》り、その奥から太陽が、平たく活気なく曠野の乾いた土地や蕁麻、灌木の叢を射た。スーラーブは、早朝、天幕の隙間隙間から白く差こむ光で目を醒した。すぐ、今日の一騎討のことを思い、彼は、平気なような不安なような妙な心持になった。食慾がないのを、殆ど無理に、疲れまいとする要心だけから多くの食物を摂った。そして武具をつけ始めたが、鉄の胸当を執りあげると、スーラーブは、暫らく躊躇した。いっそのこと、頸飾を胸当の外に出して懸て置いたらよくはあるまいかという考えが、頭に閃いたのであった。然し結局もとどおり、それは肌衣の下にしまったまま、胸当をつけた。母にとっても自分にと
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