っても、その頸飾一つが父への形に現れた絆であった。余り冒険的な機会に曝してはという考えで制せられた。
 仕度を調えて出て見ると、陣中に、昨朝とはまた違う一種の生気が漲っていた。兵等は、彼を認めると、勢のよい、砕けた丁寧さで声をかけ挨拶した。彼等の眼付や素振には、スーラーブの胸に暖さと愁いとを同時に感じさせるものがあった。単純な心で、自分等の統帥者が強いと、頼むに足りることを知った者共は、彼を迎えると、自分等の間から選出した格闘士でも仰ぐように、あらわな贔屓《ひいき》、称賞を示す。スーラーブは、複雑な感情で、軍列を整理した。そして昨日とほぼ同時刻に、ツランの陣を離れて、空地の中央に騎り出した。
 イラン勢の中からも、灰色ずくめの戦士が立ち顕れた。どういう訳か、今日は徒歩立ちで、鉾の代りに太刀を佩《は》いている。
 スーラーブも馬から降りた。兵卒が駆けて来てその馬を引き戻った。ツラン方から、熱情の籠った声援が湧き起った。イラン勢からは、刺戟的な、太鼓の響が伝わって来た。
 イランの戦士は、スーラーブの眼に、昨日よりずっと穏やかに、礼儀深く見えた。彼は、あんな劇しい様子は示さず、対等に振舞った。
「さあ! きのうの勝負の片をつけよう」
 スーラーブは、黙礼した。イランの戦士は、スーラーブの顔を見ながら太刀を抜いた。その眼ざしが、彼には殆ど親みを湛えているほど害心のないものに感じられた。スーラーブは、喉元にせきあげる感情で、思わず訊いた。
「卿は、本当にルスタムではないのか」
 和らいでいた光が、素気なくふっとイラン戦士の眼の中で消えた。彼は俄に焦々し、太刀を構え挑みかけて叫んだ。
「さあ、さあ! 何をぐずぐず!」二人は、後じさった。長い、反の強い太刀が、敵を狙うた獣の牙のように、切先を交えて対峙した。
 スーラーブは、例によって始めのうちどうしても注意が集注されなかった。彼は、全く受け身に働いた。
 けれどもイランの戦士は、長引く一騎打ちを、この一勝負で決めたいと思うらしく、太刀風鋭く切りかけ切りかけ追って来る。およそ、八九十合も打ち合った頃であった。イランの戦士は満身の力を切先に集め、気合い諸共、巖も砕けろとスーラーブの肩先目がけて截り下した。

        四十二

 スーラーブは、はっとする間に身を躱し、相手に広い空を切らせた。イランの戦士は力余って、覚えずよろめきかかった。スーラーブは、そのすきに素早く手許に切り込み、見事に太刀を対手の手から薙落《なぎおと》した。
 怒濤のような両軍のどよめきの間に、イランの戦士は、「おう!」と呻くと、素手で組もうとかかって来た。スーラーブもからりと太刀をすてた。二人は牡牛のように、がっしり四つに引組んだ。彼は、寧ろこの偶然の機会を悦んだ。相手の体に密着したことで、疑問の面覆いを引剥ぐことも出来るかと思ったのであった。
 スーラーブは、どうかして片手だけを自由にし、その目的を達しようとするのだが、イランの戦士も豪の者だ。右に左に揉み合ううち、スーラーブは、だんだん自分の疲労を自覚して来た。太陽は直射せず、微かな西風さえ吹き流れているが、平地では、砂がちの地と草のいきれで、むっとする暑さが澱んでいた。対手の息づかいの荒さは引っ組んだスーラーブの肩に感じられた。然し、若年の彼の及びそうもない消極的な持堪えが相手にあった。
 喉の渇きが激しくなり、粘りこい膏汗が滲み出すにつれ、スーラーブは、少し焦り始めた。彼は、渾身の力を振搾り、相手を上手投にかけようとした。イランの戦士は、うんと足を踏張って堪え、逆に、スーラーブの脚を掬おうとする。それを脱して体を持なおそうとする拍子に、ほんのちょっとではあるが、スーラーブの右手が浮いた。危いと見る間に、イランの戦士は老巧な腰のひねりでぐっと右をさした。スーラーブの体は、対手ともろに今にも倒れんばかりに平均を失った。処で、彼の若さが、彼を助けた。撓み撓んでもうちょっとという刹那、彼は、どうしたか自分でも判らない身のこなしで宙に躯をたてなおすと虚を衝いて、いきなり厭というほど対手の左脚を前方に引張った。既に平衡を失していたイランの戦士の巨きな躯は、地響きを立て、仰向に倒れた。スーラーブは、飛びついてその胸に跨り、ぎっしり両膝でしめつけた。一度、二度、脚を蹶上《けあ》げて、イランの戦士は起きかえろうとした。が、それが無駄と知れると、彼は思いきりよく、※[#「足+宛」、第3水準1−92−36、406−16]《もが》くのをやめた。
 スーラーブは、はっ、はっと、喘ぎながら、対手の顔を瞰下した。面覆いは少しずれ、汗と塵にまびれた間から一握りの白髭が、惨めな様子でこぼれていた。黒みがかった唇を少し開き、激しく息を切る、口の中は暗い穴のように見えた。観念したらしく眼をつぶってゆさりともしない大きな顔には、深い幾条かの皺が走り、何ともいえず寂しい、あじけない感じを起させる。スーラーブは、腰の短剣に手をかけたが、覚えず柄をつかんだまま逡巡した。老戦士の顔には、何かまるで人間離れのした感動があった。それがスーラーブを陰鬱にした。こんなにしてその体の上に踏跨っているのなどはさっさとやめ、手の塵を払って立ち上ってしまいたい、いやな浅間しい気を起されたのであった。彼は、その好機を利用して対手の面覆いを剥ぐことさえ忘れた。彼は、短剣にかけた手をそのまま、深く対手の上にこごみかかった。そして、ひとりでに囁きで訊いた。
「――真実卿はルスタムではないのだろうな」

        四十三

 老戦士の面には云いようのない苦しげな色が漲った。彼は、歯の間から呻いた。
「殺せ。殺せ。卿は勝ったのではないか」
 云うなり一粒大きな涙が古木の表皮のように皺んだ彼の目尻から溢れ出した。そして、糸のように流れて傍の地面にしみ込んだ。スーラーブは、天日の運行も、自分の頭上で止まってしまったように感じた。殺すに忍びない何かが切な彼の胸にあるのだ。彼は緊張に堪えず、覚えず身じろぎをした。すると、目にも止まらないその動作を、片唾をのんで観ていた両軍の将卒が何と見てとったか、一時に悲痛極まる鬨の声をあげ、どっと中央目がけて殺到して来た。スーラーブは、弾かれたように足で立った。イランの戦士は砂を蹴立て、起きなおった。イラン軍からも、ツランの勢からも、今度は歓びで燃え震える喊声が湧き立った。彼等は際どい、危い勝負がまた互角の引分けで終ったのかという驚異と亢奮を制しかね、彼等は、幾度も、幾度も、鎮まろうとしては更にどよめいた。
 この一騎討ちに刺戟されたのかツラン兵は特にその日勇猛であった。彼等は、イランの陣近く進撃し、多くを殺傷して、数頭の乗馬を奪った。夕刻戦闘が終ると、スーラーブは、フーマン等と離れ、独りで、傍路から高地の陣へ戻った。彼は脱いだ甲冑を一まとめにして左手に提げていた。行手の、鳩羽色に暮れかかった樹林の上に、新しい宵の明星が瞬き出した。人馬の騒音は八方に満ちているが、それぞれの形がぼんやり薄闇にくるまれているため、遠い、自分とは無関係な物音のように感じられる。
 スーラーブは、草の匂う高地の斜面を登りながら、肉体の疲労よりは心の疲れを強く感じた。それも、天幕に行き、ゆっくり一盃酒でものめば癒る種類のものではなかった。自分の目的は、はっきり目の前にあるのに、曖昧な、ちぐはぐな何ものかで遮られ、一思いにそこに至れない歯痒さ、焦立たしさが彼の感情を重くしているのであった。今日の一騎討ちの結果についてもスーラーブは、余り後口のよい気持ではなかった。慧眼な傍観者は、確に、自分が対手を倒した時と、立ち上った時との間に、充分剣をぬき始末をつける余裕のあったのは認めているだろう。躊躇したのも見たろう。意識して対手を助けようとしたと云われても、スーラーブは、その点を明瞭に説明する言葉が自分にないのを自覚した。父の連想があるので、何んともいえず組敷かれた敵の年寄りをあわれに思ったということはある。けれどもあの瞬間、自分の心に、助けようという、はっきりした意志はなかった。殺しきれないうち、局面が変ったのだ。自分の目的に早く達するためには、あの時、あの老戦士との勝負をさっさと片づけた方が好都合であった。本当の愛からでもなく、ほんの心のはずみでああいうことになり、而も、その結果について、責任ある説明を要求される立場にある自分を考えると、スーラーブはくしゃくしゃした。
 前方には、陣地で燃く篝火のチラチラ光る焔が見え、パチパチ木のはぜる音が聞え始めた。
 スーラーブは、自分の心にある妙な優柔不断めいたものを、しんから苦々しく思った。対手が真実父親であったため、自分の気持にああいう現象が起ったのではなかろうかなどという疑問は毛頭起らなかった。彼は、父が、自分のような青二才に敗けようなどと夢想もしなかった。

        四十四

 けれどもこの時、スーラーブが後を振かえり、透視力のある瞳でイランの陣を瞰下すことが出来たとしたら、彼は思いがけない一つの光景を見出しただろう。
 混雑の頂上にあるイランの陣の間を、スーラーブの膝の下にされた今日の老戦士が、一人で、いそいで、自分の幕営に戻ろうとしていた。
 彼も、他の将と顔を合せるのを厭うらしく、物蔭を、厳しい様子で歩いた。武具をつけたまま、兜だけをとったギーウが大股に数間あとからその姿を追っていた。燃き始められた篝火の間に黒く、見え、隠れするルスタムの後姿には明かに或る感情が表れていた。苦しい、激しい、暗い感動を、やっと意志で制し、威厳の裡に封じ込めているように、肩つきや頸が硬ばって見えた。脚ばかりは、その制御を受けきれないように、荒く不規則に、夜の地面を踏んで行く。ギーウは、もう少しで天幕に入るというところでルスタムに追いついた。彼は、黙って近よりさま、ルスタムのやや前かがみな、厚い肩に手をかけた。ルスタムは、ぎょっとしたようにふりはらうと肩を捩《ねじ》りながら、顔を向けて後を見た。ギーウと知ると彼は、止り、太い太い吐息をついた。ギーウは、ルスタムに顔を近づけた。「入ってもよいか?」
 ルスタムはギーウを見たが、目を逸し、暫く考え、
「待ってくれ」彼は歩き出して云った。
「後で迎えをやる」ギーウは、ルスタムの肩を一二度軽く叩いたまま引きかえした。
 ルスタムは、のろのろ自分の天幕に入った。そして、殆ど機械的に甲冑をぬぎすてると、どっかり腰架に腰を卸した。侍僕が用意していた祝辞を、ルスタムの顔つきで阻まれ、訝かしげに眼の隅で偸見ながら、跫音も立てず酒盃や瓶や、乾果、その他を卓に並べた。
 燃える炎のような眼でじっとそれを見ていたルスタムは、準備が整うと、
「もうよろしい。用があったら呼ぶから彼方に行っていろ」
 侍僕が胸に手を当て、引きさがりかけると、ルスタムは、更に呼びかけた。
「今夜は誰にも会わぬから人は入れるな」
 ルスタムは、酒瓶に手をかけた。小さい燈の下で、酒はごくり、ごくり、豊かな音を立てて、脚高な盃につがれた。芳ばしい、神経を引立てる香が四辺に散った。ルスタムは、右手に盃を持ち、左手で白髪を胸に押しつけながら、盃に唇をつけようとした。が、彼は、何とも知れず喉元にこみあげて来る悲しみを感じ、ごくりと喉をならして、盃をおろした。
 人気ない卓の上で、酒はいよいよ愛らしい琥珀色に輝いた。それを看ているうちに、ルスタムの眼では、燈の色も、盃の形も次第にぼやけ歪んで来た。彼は、鼻の奥にむずむず涙腺から流れ下るものを感じた。
 ルスタムは自分を叱るように、盃を握ると、一いきに酒を煽った。空の盃を手から離さずにまた注いだ。また煽った。三盃そういう風に飲むと、彼は大きく息をつき、卓に肱をかけ、その手で頭を支えた。ルスタムは、自分の戦士としての最後が、こういう形で示されようとは思っていなかった。イランのルスタムが、あの若者に慈悲をかけられて、命を助かる!

        四十五

 ルスタムは、敵に組しかれた自分を全軍に見られたということは毫も愧としなかった。
 け
前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング