れども、自分が起きなおり得たのは、ツランの若者の立った後であるのを見られたことを思うと堪えられない気持になった。彼は、数十年来保って来た戦士としての自信が、一時にざくざくに砕けたのを感じた。自分の予覚は当った。この戦いには矢張り出ない方がよかった。けれども、ルスタムは、今はもう自分がぬきさしならぬ立場にあることを知った。どうにでも、始めた勝負の片はつけなければならない――自分が死ぬか、あの若者に傷を負わすか。
然し今日のことを考えると、ルスタムは、到底自分に身を全うする希望は繋げなかった。イランの全軍が自分に信頼して任せているような結果、自分が最初自分に恃んで乗り出したような方向に、決して実際は終りそうになく思えた。戦うために生れて来た者だ。戦いで死ぬのは、彼一箇人の感情から見ればさほど厭うべき、悲しむべきことではなかった。そうとなった暁にはただは死なぬぞ、という反動的な勇気を持ち得た。ルスタムの重荷に思うのは、自分に迷信的な威力をあずけている、無智な兵卒等の擾乱であった。彼等は万一ルスタムが殺されたと知ればギーウの豪気を以てしてもどうにも出来ない意気沮喪に陥ることは彼の目に見えた。
王は、騒ぎ立ち統一を失った者共の心をぐっと収攬するだけの精神の力を欠いている。結果はイラン全土の無統帥とツランの侵略になりかねない。愚な者達は、事実は朽木のように弱くなっても、ルスタムがいる、ということさえ知っていれば安心し、人並の勇気を保っているのだ。彼は、総ての事情を苦痛に感じた。省みると、自分の今度の行動には嘗てなかった夥しい私情が挾まれていた。抑《そもそ》も出動を肯じた動機さえ甚だ無責任な好奇心に誘われたものであるといいたい。また、あの若者が戦いを挑んだ時、何も自分が出るには及ばなかったかも知れない。ギーウが視た眼の心を見ない振りしたのは、自分の失望や寂寥やで、むしゃくしゃしたまぎれの、鬱憤にかられてであった。自惚《うぬぼれ》も手伝っている。
本当に冷静に公平に、イランのためを思えば敢てしないことに手を出したようなものだ。
ルスタムは、その責任を果すために、自分が明日こそ、あらいざらいの力を搾って働くのは当然な義務だという、道徳的な結論に達した。自信はないが、最善を尽すしかないという覚悟に或る安心が伴った。それにしても、彼には解けきれない一つの疑問があった。何故、血気に逸《はや》る年頃のあの若者が、今一息という際で、自分の命を許したのだろう。
四十六
「許す! 許す!」
苦々しげに、白髭をしごき、ルスタムは頭の裡で呟いた。「実に、恥辱極まることだ」
彼が人目をさけて天幕に戻り、ギーウを拒んだのも、自分が慈悲を受けたのを目撃した、その眼を見るに堪えなかったからなのだが、思えば思うほど、彼に若者の心持は不可解であった。何のために彼はあんなに皮肉な念を押したのか。
「ルスタムでは、ないのだろうな[#「ないのだろうな」に傍点]」
それを思うと、ルスタムは、全身が焔をはくような気がした。あの無念さ。飛びついて煙を吐く火花とならずに、しめっぽい涙が出たのは寧ろ不思議な位だ。
然し、何故、あの若者は、あの好機をはずしたろう。何が躊躇させたか。ルスタムは、知らないうちに腰架を立上り、天幕の円錐形の屋根の下を、彼方此方に歩き出した。
そして、一つの考えを追った。ごく表面的にとれば、ちょっとしたはずみであったらしくも見えるそのことの裡には、ルスタムの心を牽いてはなさないものがあった。
フェルトの長靴は、地に跫音を立てない。背後に両手を組合せ、歩き廻っているうちに、ルスタムの顔に、だんだん違った表情が現れて来た。彼は、時々、一二間先の地面に落している視線をあげては、何者かを求めるように、自分の囲りを見廻した。彼の心には、苦しい、悩ましい空想が蘇って来た。若しや、万一、あの若者は、自分の虫が知らせた通り、自分の未だ見ぬ自分の息子なのではないのか。血が血を牽く微妙な働きで、あの戦場のならわしにはないことが起ったのではあるまいかという思いが、こびりついて、彼の心で蠢き出したのであった。
さんざん歩き廻った末、ルスタムは心の動揺に堪えない風で、天幕の一隅に跪いた。そこには一つの櫃《ひつ》があった。彼はその蓋をあけ、中から皮袋をとり出した。
櫃を元のようにすると、ルスタムは袋を持って、ほぼ天幕の中央に胡坐をかいた。考えに沈みきった面持で、彼は袋の口を解いた。そして三寸ばかりの白檀の数片と、燧石《ひうちいし》とを出し、大きな指先で丁寧にその白檀の小片を、小さな尖塔形につみあげた。彼は燧石をすって、それに火を点じた。木片の端にちろちろした火は次第に熱と耀きとを増し、夜の空気の中に高い芳しい白檀の薫香を撒き始めた。
ルスタムは、目を瞑り、胸一杯その香を吸うと、坐りなおして跪いた。彼は重い体を伏せて、恭しく小さい赤い焔を拝した。そして沈黙の永い祈祷に入った。ルスタムの胸には、数年来覚えなかった神への切な祈願があった。彼は、自分の心も体も、こういう有様になって来ると、自分の力ではどうにもしようのないのを感じた。縺れた思いを解くにも、弱った体力を鼓舞するのも、外からの救いがいる。彼の祈りはこうであった。
「大神アウラ。卿の老いたる僕ルスタムは、今ここに清き火を燃き穢無き心で卿に会えようとしています。何卒恵み深き啓示を下し給え。儂が、あのツランの若者に対し、このように深く頻りに憧れる心持は、全く老ぼれ爺の弱い妄念なのでありましょうか。または、夢より奇な事実でしょうか。――若し真の敵ならば、アウラよ。恵み深いアウラよ。今一度このルスタムに昔時の力を借し給え。ルスタムは、ルスタムらしく終りたい。万一、あの若者が我が血を嗣ぐ者ならば、今夜、まだ命が互にあるうちに、何かを以て暗示し給え。――儂は、荒くれた戦士に許されるだけの聡さで心の目と耳を開き、卿のささやかな声を聴こうとします」
四十七
低い、小さい燃き火が滅し、白檀の香がつめたく遠く消えてしまっても、ルスタムは、彼の頭を擡げなかった。彼は、暫く身も心も祈に捧げて、苦しい、当のない想像や矛盾した実際の間に何かの解答を得ようとしたのであった。神は、すぐ間近にあるように感じられた。心の声は真直、白檀の烟とともにその膝に達したと思える。然し、ルスタムは、どんな特殊な囁きも、羽搏きも自分の傍に聞かなかった。夜は、そして幕舎の裡は、もとどおりイラン曠原の寂しさと、見なれた光景に満ちている。それでも、彼の気分は祈りによって幾分鎮められた。卓に置き捨てられた酒瓶に映る燈の色や、ぽーっと大きなものの影が、少しは彼の眼に美しさの感を与え、愛を感じさせた。やや暫くそのまま坐ってい、ルスタムは立上った。そして、皮袋を元の櫃にしまい、燃火の灰をならし、一まわり天幕内を見まわすと、入口の垂幕をあげた。
ギーウを迎えに、気を更えるため自分で行こうとしたのであった。天幕を出、ほんの僅か歩いたかと思うと、ルスタムは、誰かに寛衣の裾をひかれた。月光の遮られた陰翳から黒く立現れたのはギーウであった。彼はルスタムを案じ、余程前からそこに忍んで気勢を窺っていたのだ。ルスタムは、ギーウの友愛に、辛い感謝を感じた。二人は、連立ってルスタムの天幕に戻った。その夜深更まで、二人は協議を凝した。それは、全く、ギーウが云ったとおり、予想もし得なかった問題についてであった。――ルスタムが、若し明日の決戦で再び立てなくなった場合には、どうするという善後策である。ギーウは、燈の油が尽きかける頃迄いた。ルスタムは、ギーウが帰ってから臥床に横わり燈を消し、永いこと闇を見つめていた。
ちょうど彼の眼の見当に一筋天幕のすきがあり、そこから、顫える銀糸のような繊い月光が流れ込んでいた。ルスタムは、さっき神に捧げた祈りの答えは、何故ともなくその月のやさしい清い光波に乗って来そうに思った。飽ることなくその点を見守っているうちに、精神は空に移る月の通り下へ、下へと降り、静謐な、堪忍強い力に落付いた。半《なかば》睡りかけたルスタムの心にふと「明日は大かた」というような文句が湧いて消えた。彼は、はっとして目を瞠り四辺を見た。月光は先刻よりやや低いところから、短い蕁麻の葉を浮き上らせ、地面にずっと流れている。ルスタムは溜息をつき、年よりらしい寝返りを打った。
第三日目の暁は静かに来た。東雲頃迄空は平穏で、消えのこった淡白い星に涼しい風が渡った。ところが、太陽が登るにつれ、黒雲がツランの陣の後方から湧き上り、雷鳴を伴った珍しい朝の驟雨がかかって来た。
ポツリ、ポツリ、ルスタムは天幕を打つ雨の音をきいた。間もなく幅広い、天地を押しつつむようなサッサッ、サッサッという雨脚が迫って来ると思うと四辺は濛々煙るイランの俄雨につつまれた。雷の音、激しく天幕から雨滴のしたたる音。天幕内の地面に、砂が押流され幾条も小溝が掘れた。やがて、雨が遠のいた。天幕を打つ音が軽く、軽く、だんだん小さくなって来た。同時にがやがや外に人声が!
「あ、虹! 虹!」
と呼ぶのが耳に入った。ルスタムは、天幕を出た。そして、多勢の兵等が眺めている方角に眼を遣ると、彼は思わず、
「ほほう!」と感歎の声を放った。
四十八
虹は、ちょうどイラン軍の真後の地平線に、壮麗な光輪のようにかかっていた。七色の縞が鮮かに見え、ルスタムの処から眺めると、数多いイランの幕営が、優しく小さく群てその晴やかな光の冠に抱き込まれているように思えた。彼方の地平線は、まるで別なところのように宏大に見える。遠い曠原の一点から、二羽、黒く大きな鳥が舞い立った。そして、迫らない羽搏きで矢のように、真直虹の中心めがけて翔び去った。
ルスタムは、風景全面から、悦ばしい勇気づける印象を与えられた。彼は、昨夜の祈りに対する、暗黙の応えが自然のうちに現わされたのを感じた。まるでイランに冠したようなその虹の姿は、彼に吉徴としか思われなかった。神が自分の側にこのような歓びの前ぶれを与える以上今日の勝利は信じてよく、結局あのツランの若者は、一人の敵に過ぎなかったことではないか。
暫く眺めると、ルスタムは勢いよく天幕に戻った。そして、侍僕に手伝わせ、念入りに武具をつけた。彼は珍しく自分で閲兵した。ギーウに会って昨夜の相談を快活に、――その実行の不要を直感させるような張りのある語調で繰返した。ルスタムは、ツランの若者と戦を交えてから三日目の今朝、始めて自分の裡に眠っていた戦士気質というようなものが遺憾なく目醒、活動し出したのを自覚した。遅疑がなくなった。勝利に向って飽くまで突き進もうという血気が生じた。彼は牽き出されて来た灰色の馬の鼻面を掌でたたき、脚つき蹄鉄等を注意して見てから、身軽くそれに跨った。雨水を吸い込んでしっとりとした砂まじりの地面は、兵が進行し始めると数多の重い足調の下で、サック、サックとなった。
遠い地平線の虹は消えた。碧い空が透明な日光に耀いて、動く人間の濃い影が入り混った。
前後して、ツラン軍も高地を降って戦線についた。スーラーブは、整列するまで昨日と同じ騎馬でいたが、羯鼓が鳴り出すと、馬を降りて徒歩立ちになった。彼は、今日こそ、心を引締めてこの勝負に片をつける決心でいた。それには、昨日の経験で、徒歩の方が自分に強味のあることを考えたのであった。
キラキラ、兜のはちを輝かせ、スーラーブが歩き出すのを見ると、ルスタムは、一種の激しい衝動がこみあげるのを感じた。
「忘れていた昨日の恥辱を思い知れといいたげに、あの若者は、自分の方を見るではないか!」
ルスタムは、手綱をばらりと落し、ひらりと馬を降りた。彼は、誰かの手で出された鉾を引掴んだ。そして、性急らしく戦列を離れた。太鼓がイラン側から、立て続けに鳴った。ツラン方は、主将の勝利を確信しているらしく、間々に鬨の声をあげては、悠揚力を籠めた羯鼓を打込んだ。
ルスタムは、近づいてスーラーブの顔を見ると思わず鉾を握りしめた。若
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