者の顔つきは、昨日、一昨日のそれとまるで異っていた。覚悟をきめて容赦しない男の猛々しい激しさが眉宇の間、唇のまわりに漲っている。スーラーブも、これが昨日、あの胸を揺するような涙をこぼしたイランの老戦士かと、愕きあやしんで対手の顔を視た。老戦士は、十も若返って見えた。黒い切れの長い大きな眼は烱々《けいけい》と光った。体じゅうが、すっかり我ものになりきったという強靭な意気込みが満ちている。互は互に、鋭い用心を感じながら、鉾を合せてじりじりとつめよった。
四十九
重い鉾が打ち合う毎に響は、空気の中に長い尾を引いて顫えた。スーラーブは、二度対手の肩に、強い打撃を加えた。イランの老戦士は、獣のように呻き、少しよろよろとし、直踏み堪えて、今度はスーラーブの脚に、殆ど薙倒しそうな横払いを与えた。スーラーブは、唸って対手に飛びかかった。火花の散りそうな、息のつまる、早い、強い打ち合いで、二人は鉾をからみ合せたまま傍に放りなげ、焦立ったように組合った。これは、ルスタムの思う壺であった。
彼は、ツランの若者がわざわざ馬から降りて出て来た時、何を目論んでいるか、すぐ感じた。そして、不快を覚えた。彼は、老獪な戦士らしく、ここで対手の心算を逆用することを企てたのだ。組んでしまうと、こっちのものだという安堵がルスタムに湧いた。彼は、引組んだまま、積極的にはちっとも攻撃をとらなかった。年寄の根強い支持に、若者は癇癪を起した。スーラーブは、一二度肩で、対手を誘うように押しかけて見た。然し、ルスタムは、心の平静を失わず、ゆるめもせず、さりとて力を増すでもなく、万力のように彼をしめつける。
スーラーブは、対手が何処に勝めをかけているか、忽ち感付いた。彼は強て自分も気を鎮め、どうなってもかまわない、疲れないだけの消極的態度を守ろうとした。けれども、凝っと引組んでいるうちに、スーラーブの胸は燃えるようになって来た。云い難い嫌厭が敵に対して感じられて来た。この執念い、詭計に富んだ古戦士は、何処まで自分と目的の間に立とうとするのか。きのうの惨めらしい様子、憫《あわれ》っぽい涙なども、案外わざともくろんだことかもしれない。あのことで自分は昨夜どんなにフーマンと激論したか。眠れもしなかったのを此奴は知るまい。
スーラーブは、我知らず、ぐいぐい対手にのしかかった。彼は、もう、邪魔な大石でも道傍からどけようとするような単純な熱中に駆られた。
けれども彼が押しても引っぱっても、イランの老戦士は根でも生えたように動じない。焦立つな、焦立つな、という警告は、スーラーブの心の一方で絶えず繰返されている。彼ははっきりその必要を知っているのだが、対手が余り平然としていると、憤怒が湧き、我にもなく四肢をいきませてしまうのだ。
スーラーブは、この勝負が、まるで、腕の争いより、一種心の組み打ちになったのを感じた。そう気がつくと、不意と冷静な気分が還って来た。スーラーブは、さりげなく素直に手脚の力を緩めた。それにつれ、対手もほんの僅か隙を作った。とっさに、スーラーブはそこにつけ入って腰をひねった。足がらみが利き、対手はきれいに倒れた。が、イランの戦士は、執念深く、彼の腕を掴んで離さない。スーラーブは、片手を引っぱられ、駆けるようにのめって、どっさり対手の上にかぶさってしまった。スーラーブは、はっきり自分の危険を感じた。彼は渾身の力を搾って、下になった敵の抱擁から体を引離そうとした。彼は、めちゃめちゃに脚で地面を蹴り、対手を蹴り、組合ったまま、ごろりごろりと転がった。
ルスタムももう必死であった。彼は機会が二度と自分に来ないのを直覚した。今、この若者を放せば、彼の命が危い。猶予してはいられない。ルスタムは、両脚でしっかり対手に絡みつき逃れないように片手で喉を掴みながら、空いた片手を自分の腰に廻した。
五十
スーラーブがちょっとでも対手の顔から注意を他に向けられれば、下にいる敵の手が何に触ったか、容易に感じられただろう。そこは、ルスタムの老練に及ばなかった。ルスタムはそれをさけるため、鋭い、集注した眼でぐっと対手の心を自分の顔にあつめさせ、喉を攻撃して、自分の手を留守にさせたのであった。これ等の思慮は、恐ろしいほど明晰にルスタムの心で配られた。彼は蛇のようにそろりと短剣の柄を握った。そして鞘をぬくや否や、物を云わせず、下から対手の脇腹深く突刺した。
スーラーブは、何ともいえぬ悲しげな呻きを洩した。彼は、言葉にいえない苦痛と一緒に、どっさり体が高い処から落ちたのを感じた。落ちるのをふせごうとして手をばたばたやった。劇しい刳《えぐ》る痛みが起り、眼が重く、見るものが見えないようになって来た。
スーラーブは、瞬間、自分はどうなったのか見当のつかない恐怖に掴まれた。彼は、さっと蒼白くなった顔の中で、二つの光の失せた眼を瞠り、訝るように、傍に立っている、天につかえそうな背高い戦士を見上げた。急に、頭の中に前後の関係がはっきり写った。スーラーブは、絶望して唸った。
「自分は刺された。死ぬ。ああ、ああ、血が流れる。父に会わずに殺されたか。何もかも駄目だ」
世界じゅうが、鈍い色の不愉快な塊になってずんずん彼方へ後じさって行くように感じた。非常に孤りぽっちという寂しさがスーラーブを苦しめた。心も体も大きな波のうねりにのって漂っているようだ。時々何かにぶつかるように疼《いた》みが彼の意識をはっきりさせたスーラーブは、大切な云うべきことがあるのを感じ、当もなく起き上ろうとしながら、
「ルスタム……ルスタム!」
と嗄がれた声で呼んだ。
傍に立ち、義務を果した安心の後、沈んだ気持で瀕死の若者を瞰下していたルスタムは、どきりとして一歩足を踏み出した。同時にもう二度と若者が立てないほど、自分が刺したのだという意識が、罪のように厳かな感じを伴って彼の頭に閃いた。ルスタムは注意深くこごみかかって云った。
「ルスタムがどうした?」
きのうも一昨日も、いざという時になると、この若者が自分の名を口にした記憶が、新な戦慄をルスタムに与えた。
「ああ、ああ……」
若者は、涙の乾いた悲しい声を号泣するように永く引張って、体を動かした。熱い砂上に吸われて行く血の匂いが、ルスタムの鼻を刺した。彼れは、一層顔を近づけて訊きかえした。
「ルスタムがどうしたというのだ」
若者は、ぼんやり開けて天の青空を映していた瞳をぐるりと動かし、犬のような罪のない、遠くを見る眼差でルスタムを見た。
「ああ。――ルスタム」
若者は喘いで、むせた。
「ルスタムが、儂の讐を討ってくれる。イランのルスタムは――白い馬に――ああ会ったら云え……ルスタムはわが父だ。ここに、ここに、……」
ルスタムは、倍にもなったように眼を見開き息をつめて起き上った。地面と輝く天とがぐらぐら目先で揺れて一緒くたになった。
彼は、急に何処かを打たれたように、若者の上におっかぶさり、熱心に、早口にきいた。
「卿の名を云え。母は? 父は? 確りしろ。名は何というのだ」
五十一
スーラーブは、微かに、然し明瞭に「母は? 父は?」と自分の傍で呼んでいる声をききわけた。捕えどころのない優しい感情ののこりと、説明の必要を知る実際的な意識とが、ひくひくする小虫のように、彼の心で動いた。彼の色の変った唇に、微笑の引つれが、見わけのつかない表情が浮んだ。彼は、ゆるゆる囁いた。
「スーラーブ……ターミナ、サアンガンのターミナは母だ」
俄に、ぱっと生命の最後の滴りが輝くように、スーラーブは、熱烈に云いつづけた。
「ああ、今死ぬものか? 死んでなるものか。行って云え、早く云え! ルスタムの息子が、父をたずねて来たのだと」
ルスタムの躯は木の葉のように顫え出した。彼の顔は、死んで行くスーラーブの顔より蒼くなった。彼は、呻き、両手を天に投あげると、涙を流してスーラーブの頭を抱きかかえた。何と云おうにも言葉が出なかった。彼は、自分の運が、想像出来る最も惨虐な一幕の上を、静かに自若と通りすぎるのを感じた。これはあり得ないことだ。信じ難い凶悪な偶然だ。而も事実で、自分の殺した息子の頭を抱えて泣く憐れな愚な父は、この父、ルスタム以外の何者でもない。然し、何のために自分の息子は、こんな危険極まる機会を作って自分に会おうとしたのか。あの突拍子もなく思った虫の知らせに、何故もう少し信じ得る証がなかったか。今朝の、大らかな晴々した五色の虹の光彩が最も厭うべき薄情な明るさで心の裡に半円を描いた。ルスタムは、震える手でスーラーブの頭を膝に抱きあげ、顔を視守ったまま、大きな声で、
「ギーウ! ギーウ!」
と叫んだ。ギーウはすぐそこにいた。ギーウばかりではない。ツランとイランの全軍がついそこにいた。スーラーブの刺されたのを認めた両軍は、一方は悲傷の黒い波のように、一方は勝利の旗のように、中央めがけて突進して来た。が、突然、思いがけないルスタムの挙動が彼等の歩調をのろくさせ、やがて全く停止させた。彼等、数名の眼が、二人の戦士を遠巻きにし、戦いを忘れ、畏怖に打たれてじっと一点に注がれているのだ。ギーウは、のぞき込んで二人を見較べた。
「何事だ?」
ルスタムは、訴えるように、汗と涙でよごれきった顔をあげた。
「見てくれ。最後の手柄に息子を殺した。――信じられないことが事実になった。すぐ王の処へ行って、血止薬を貰って来てくれ。チンディーの名薬がある筈だ。簡単に、速く!」
ギーウが戻る迄、ルスタムは、傍の者を恐れさせた程真剣な、つきつめた一心に夢中になった様子でスーラーブの傷に手当をした。彼は、叱りつけて水をとりにやった。思うようにならない老年の、ぎごちない指を縺らせながら自分の帯を解いて傷を縛った。そして、絶間なく、スーラーブの開いている口に頬をつけて息のあるなしを確めた。二人の卒が、スーラーブの体の上に、彼等の上衣をひろげて持ち日除けを作った。
ギーウの姿が目に入ると、ルスタムは、遠くにいるのに、
「どれ、どれ!」
と手を出した。
ギーウはすまない顔をして首をふり叫んだ。
「――ない!」
五十二
「どうして? 王の処にない筈はない。きのう、儂は袋を確かに見た」
「袋はある。あるのだが――」
ギーウは、ルスタムの耳に囁いた。
「王は渡さない。ツラン方に卿の息子がいたなどということはない、というのだ」
「!」
ルスタムは、拳を握って立上った。
「よし。儂が行って来る」
が、痙攣が起り出したスーラーブの姿を見ると、ルスタムは、砕けるようにギーウの手をつかみ、たのんだ。
「どうか見てやってくれ。すぐ来るが。――それから、万一訊いても儂の名はきかせてくれるな」
ルスタムは、王の天幕まで、つきない砂漠でも横切るように永くはかどらなく感じた。天幕に入って見ると、王は至極落付かない風で、手を後に組み、寛衣の裾をけって彼方此方歩いている。彼は、ルスタムの入って来るのをじろりと流眄で見、歩きかけた廻りをつづけた。
ルスタムは、辛うじて、定規の礼を行い、頭を擡げると同時に口を切った。
「王、唐突な願いですが、何卒御所持の、あの血どめの秘薬を、御恵み下さい。只今ギーウに願わせましたが、御理解なかったと見え、御仁慈にあずかり得ませんでした。早急に願わしいのです。何卒」
カーウスは、ルスタムの真正面に立ちはだかり、灰色の冷やかな眼に疑深い色を煌めかせて云った。
「卿の推察は珍しく誤った。ギーウに薬を渡さなかったのは、理解しなかったからではない。最もよく、未来まで洞察したからだ」
「王! 後々の責任と感謝とは、このルスタムが余生の全部を捧げて尽します。お耳に入れたでしょうが、思いがけないことで、儂はいると知らなかった自分の息子は――儂の手で刺してしまった。儂自身のためなら、決して斯様な願いは敢てしませぬ。わが命は王のものです。然し、彼奴は生きのびさせてやりたい。儂の苦しみを、せめて王の秘薬にすがって癒せるなら癒させたい。後程、事情は
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