ると、国境の山を登りきり、三ファルサングも降ると、イランでは最も西部の辺鄙を護る城がある筈であった。その前の時はアフラシャブの主張によって、わざとそれを迂回して中心を衝こうとした。ところがそれが失敗した上、要路に矢一つ受けない城が控えていたため、退却中でも、惨めな退却を余儀なくされた。彼等は、後の要心に、撃てと云う。スーラーブは、他の理由から、それに賛成した。彼は、出来るだけ早く、多くを殺さず自分も疲れないうちに……最も不幸な場合を予想すれば自分が死なない中――ルスタムを誘い出したかった。それには結局どうでもよいその城を攻め、一刻も早く、侵入の報告を中央にもたらさせるに如くはない。――翌朝未明に、ツランの全軍はその城塞が目の下に瞰下せる処まで降りていた。そして、十分の一の兵が真直に、丘陵に聳えている堡塁に迫り、残りは、遠巻にその周囲を取繞いた。
 三日の間、相当に烈しい戦闘が続いた。ツランの兵は手頃な戦いの玩具をあずけられたように、元気で、自信を以て働いた。
 矢の数を比較しただけでも、既に大体の形勢は定まっている。城主のフィズルは、悧巧にほどを見計らい、王から、卑怯の譏《そしり》を受けず、自分の生命も危くしない四日目にツスに逃れ去った。スーラーブの軍は、僅の死者、負傷者の手当をし、捨られた城の穀倉から、五十頭の驢馬に余る小麦、その他の糧食を奪い、更に前進して、もっと開いた曠野に出た。万一の場合退路を遮られないように、同時に、軍の全勢力を自由に働かせ得るように、地勢を調べて中央部となるべきスーラーブの野羊革の大天幕が張られた。そこは、背後に適当な距離を置いて、守るによい山裾の起伏の連った、延長十ファルサングばかりの緩やかな斜面を有った高地である。スーラーブは、陣地に立って、三方を展望した。父ルスタムの来るだろう西方の、ツスの辺は、内地イランの乾燥した、塩でもふいているかと思われる不毛の荒野の地平線の彼方に隠れていた。

        二十二

 カイ・カーウスは、国境の城塞を捨て逃れて来たフィズルの急報に全く愕かされた。彼は何よりも先ずシスタンに隠棲しているルスタムを動かす必要を感じた。けれども、最近ルスタムが戦場のかけ引に一向興味を失っているのは誰の目にも顕著であった。極近く南方イラン征討隊が派遣された時にも、ルスタムは固辞して受けなかった。その時親友のギーウに、自分の武人としての最後を飾るのは往年白魔をカスピアン沿岸で討った事蹟だと洩したことは、王の耳にも入っていた。然し、ツランの軍勢にルスタムの名は、或る魅力を持っている筈だ。カーウスは頭を悩ました後、一つの方法を思いついた。彼はギーウを呼んだ。そして、シスタンに赴いてルスタムの出動を促すことを命じた。ギーウは当時、ツス近傍の総軍帥であった。この切迫した場合、彼が重大な位置を暫く空けて迄出かけたというところに、親友である事実以上の或る意味が加わることをカーウスは考えたのであった。
 ギーウは、使命をやや苦痛に感じながら、一昼夜、馬を走らせた。広い夏の白光の下で乾き上った砂漠が、彼の周囲で、後へ後へと飛んだ。二日目の午後、シスタンの城が平坦な地平線に見え始めた。容赦ない一煽りで、汗にまびれ塵にまびれて城の広場に乗り込んだ時、ギーウは浮かぬ顔付で、下僕に馬の手綱を渡した。彼の、疲労でざくざく鳴る耳に、この城に珍しいなまめいた音楽が聞えた。彼は一言も口を利かず、侍僕に案内させて、城内に入った。
 城の広間でルスタムは、紅海の近くから来たという黒人娘の芸当を見ていた。妙にキーキー鋭い音の胡弓と、打込む重い鼓の響に合わせて、真碧い色に髪を染た娘達はぐっと、体をそりかえらせた。そして、手足にはめた黄金の環飾りをチリチリ鳴らし、何か叫んでぼんぼん、ぼんぼん幾つもの球を巧に投上げては操つって見せる。積み重ねた座褥にもたれ、白髭を胸に垂れ真面目な顔をしてそれを見物していたルスタムは、殆ど同じことが数番繰返されると、倦怠を感じ始めた。これが済む迄と思っていたところへ、思いもかけずギーウの到着が知らされたのであった。
 ルスタムは、赤ら顔に輝く二つの大きな眼に何ともいえない悦びの色を浮べた。彼はすぐ席を立ち上った。そして、朽葉色の絹の寛衣の裾をゆすって真直に芸人等の前を突きり歩廊に出た。二人は、歩廊の端で出会った。ルスタムは、何も云わず、むずとギーウの肩を掴んだ。ギーウも我知らず手を延してルスタムの左手を執った。
 糸杉の葉かげのうつる歩廊の甃《しきいし》を、再び広間の方に歩きながら、やがて、ルスタムが云った。
「思いもかけぬ時に会えたものだ。暫く逗留して行ってくれるじゃろう?」
「いや。……今日は見られる通りひどく性急な使者だ」
「ほほう」
 ルスタムは始めて心付いたように、ギーウの埃をあ
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