迄、私は、城の扉も閉めさせまい」

        二十

 母の悲歎は、強くスーラーブの心を痛めた。彼にとってそれが苦しいのは、もう自分の決心は到底動かせないもので、たとい母がそのために泣き死んでも、止めることは出来ないと解っているからであった。彼の親切な慰めもこれが最後かという悲しさのために、却って、ターミナにとって堪え難いものらしく見えた。スーラーブは、愛を籠め必要な説明と希望とを与えた後、出立迄、出来るだけそのことには触れない方針をとった。内房の女達は、やがて黙って、折々不安の吐息を洩し、眼頭に涙をためながら守袋を縫ったり、鞍布の刺繍にとりかかり始めた。是等の沈み勝な湿っぽい情景に拘らず、時期が迫って来るにつれ、スーラーブの全身には、益々精力が充ち満ち、心は、満を持した弓のように張り切った。シャラフシャーやアフラシャブの宮廷から先発して来たフーマン等と進路のことにつき、または戦略に関し、長時間に亙って協議した後、スーラーブは、新鮮な息を吸おうとして、広間の歩廊に出る。が、爽かな空気を呼吸するどころか、彼は、丁度下の出立の仕度で大混雑の広場から舞上る、むせっぽい砂塵を浴びた。
 晩春の晴天つづきで、広場は乾ききり、地面は一面薄黄く、ボガボガになっていた。そこに真上から日光に照され、無数の男が、立ったり据たり、各自の仕事に熱中していた。或る者は、足の間でカチカチ鳴る金物を押え、頻りに弄り廻している。或る者は、出来上ったばかりの鞍をその手に持って立ち上り、パンパンパンパン好い音を響かせて塵を払い、直下にしゃがんでいる男から、
「ヘーイ! 目を開けろ! 泥をかけてくれるにゃあ未だ早いぞ!」と怒鳴られる。どっという陽気な笑い声。彼方の隅に五つ並べて築かれた急造の石の大竈からは、晴れた空に熾な陽炎を立てながら、淡い青い煙と麦の堅焼パンのやける香ばしい匂が漂って来た。それに混って、馬の、遠くから来る、かん高いいななき。何処かで重い物を動かしているらしく低い、調子の揃った、力の籠った懸声も響いて来る。心を合せ、彼一人に信頼し、これ等の活動をしている者等を見ると、スーラーブは、しんから謙遜に、自分の計画の成就を祈らずにいられなかった。彼は、自分も彼等も等しく大きな運命の扉を開くためにせっせと準備し、用意しているように感じた。彼が、初めてイランに侵入する決心をした晩、空想のうちに、幻と思えないまざまざと浮んだ父の姿は、一層はっきり彼の心にやきつき、守本尊となった。この広場の大ごたごたの上にも巨人のような父の姿が、透明な積雲のように、而も溢れる精神に漲って、凝っと自分の計画に注目しているように思うのであった。
 六月の下旬、スーラーブは、予定通りイランに向って出発した。彼の、厚い鉄の胸当の下には圧搾され、やっと縮んでいる限りない希望と、母から借りて来た、あの銀台に土耳古玉をつけた頸飾りが大切に蔵われていた。ターミナはこの菱形の碧い珠に、幾夜かの涙と祈りとをこめて別れを告げるスーラーブの頸にかけた。彼女は、今度の計画が成功すれば、必ずルスタムとスーラーブの名に於て、迎えを寄来す。使が、再びその頸飾を白檀のはこに入れて持って来れば、信じてその者に案内を任せるようにと云う、スーラーブの言葉を唯一の希望に老いたシャラフシャーと、人気のない城を守ることになったのである。
 スーラーブの軍は、十日目の日沈頃アフラシャブ領とサアンガン領との境を区切る険阻な巖山の麓で、バーマンに率いられ、一日前に先着していたツラン勢と落ち合った。

        二十一

 六七月は、ツラン、北方イラン地方で、最も気候のよい時である。毎日、空は瑠璃のように燿く晴天つづきで、野原や森林は、瑞々しい初夏の若葉で、戦ぎ立っている。夜は、星が降るように煌いた。春の雪解でたまった手の切れるような水が、山奥の細い谿流にまで漲り渡って、野生の種々な花の蜜とともにどんなに貪婪《どんらん》な喉を潤しても尚、余りあるほどだ。夥しい兵と、数百の乗馬、荷驢馬の長いうねうねした列は、彼方此方で夜営のかがりを燃き、平和に、寧ろ巡礼旅行者のように進行した、イランの国境に迫る迄、多くの者は、甲冑さえ正式にはつけなかった。
 この季節は、夜が非常に短いので、予定より早く二十五日目に、今迄ずっと登りであった山路が、次第にイラン内地に向って下り坂になって来た。戦いに向うにしては、余り言のなさすぎる長道中に稍倦怠を感じ出した者共は、いよいよ明日、イランに入ると聞いて、俄に勢い立った。そして、その夜は、早めに天幕を張り、大きな焚火の囲りで、武装を調えた。便利のため、巻いて荷馬の背につまれていた旗が、堂々と旗竿につけられた。
 スーラーブ始め、主だった将卒は各々位置に応じた盛装をした。フーマン、バーマンの経験によ
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