始めた。スーラーブをさがして、一人の兵卒が馳けて来た。
「万端用意が整いました。御命令を待つと申せということです」
 スーラーブは、黙ってうなずいた。イラン方でも、先刻から統一ある運動が開始されていた。二人ばかり騎馬の戦士が、活気ある様子で彼方此方騎り廻す前後に武器を執った兵卒が、そろそろ隊列を整えかけていた。それ等の黒い姿や馬の蹄の下から時々ぱっぱっと、白い砂埃が蹴立てられるのまで、総て小さく手にとるように見える。

        三十七

 ツランの全軍の三分の一が、四列縦隊で高地を降り始めた。スーラーブは、栗毛の馬に騎って兵等の進行を見守った。遠くの方は、見わけのつかない揺れる頭の上下する流れに見えた。それが一種重い響を伴って迫って来彼の目の前を通り過ぎる瞬間、一人一人の顔つきが、奇妙に鋭い印象でスーラーブの眼に写った。或る者は髭ばかりのように、或る者は、じっと彼を瞶《みつ》めた二つの眼ばかりの者のように。すぐ、また後から別な、特殊な表情の顔が続いた。前の印象は消えた。これを見ようとする間に忽ち行きすぎた。次へ、次へ。そして、兵等は黒い、緩慢な瀧のように絶間なく降りて行く。平地に着いた先頭部隊は、すぐ横列に開展し始めた。スーラーブは、最後に高地を降る一隊と馬を進め、平地に出ると、数十歩駈けさせ、軍の最前列に出た。イラン軍とは、僅に百ザレほどの間隔しかなかった。彼のところからは、彼方の兵卒の一つ一つの顔まで見えた。彼等は、比較的平静な弓形の濃い眉が陰気につながった顔で、珍らしそうに、獣でも見るように、ツラン方を眺めている。小走りに駈けながら、隊の後方につこうとしている者共の、じろじろ此方を見る顔にも同じ表情があった。
 スーラーブは、馬をかえし、自分の軍列を一廻りした。左翼の端れにはフーマンが黒い馬の手綱を引きしめながら、何か、低い、激しい声で、傍の者に命じていた。右翼の端にバーマンが、凝っと正面を見て、あし毛の馬に騎っていた。彼はスーラーブを認めると、顔付もかえず、義務的な風でちょっと右手を挙げた。用意はよろしいというのだ。スーラーブは、元の場所に戻った。イラン方でも仕舞いのざわめきが鎮まった。何ともいえない静けさが張り切った。太陽は一息つき、一きわきららかに両軍の頭上に照り渡った。――
 すると、ツラン勢の後方から、心臓をつき上げるように、一打ち、強い羯鼓
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