った父と子が対面出来る。天と地とが凱歌をあげる歓びが実現するのだ。スーラーブは、我知らず宥《なだ》めるような調子になった。
「卿は二つ、正直に云った。一つだけ知らないというのは信ぜられぬ。云ってくれ。――決して悪いことはないのだ。――あの左の方、大きな天幕は誰のだ?」
 イランの捕虜は頑固に呟いた。
「知りません。――何もしるしがない」
 成程――。スーラーブは窮した。実際その天幕は無標であった。色も形も違ったところがなく、唯他のものより大きいのが特徴なのだ。スーラーブは、捕虜が尤も至極な口実を捕えたことをいまいましく悲しく感じた。捕虜に先手を打たれてしまった。もう、どんな自分の言葉も、切実な強さを持ち得ないのを彼は明かに知った。彼に遺されている一つの道は、優者らしい暴虐さで、云えない捕虜を攻め立てることばかりだ。そんなことは彼に出来ることでなかった。スーラーブは、腕組をし、脚を開いて立ち、石のように黙り込んだ。頭の上で、太陽は微かな音を立てながら、天の真中へ進んで来るようであった。陣地には、今にも、開戦準備の角笛が鳴り渡りそうであった。彼に遺されている時間は、ほんの一刻だ。その貴重な暫くが、自分の運命には些の恩沢も与えようとせず、冷然と、ついそこを通りすぎてしまうのか。スーラーブは、ふけた顔付きになり、逞しい若い胸の奥で身ぶるいをした。暗い眼で、しげしげと無標の天幕を瞰渡した。その間に、捕虜は、私かに彼を偸見た。男は、凡そ見当はついていたのに癪で真直云えなかったのである。なぐられないのが、男にとっては意外であった。そして、スーラーブの顔付を見たら、彼の感情は動いた。何かまるで淋しそうな色が、スーラーブの体全体に満ちていた。正面を向いたぎりで、男は、同情に似た静かな光を眼に泛べたが、スーラーブが、彼を見そうにすると、はっと彼の顔は変った。スーラーブは、顎をつき出すように、太い頸を牡牛のように構えている捕虜をじろりと視た。そして、手を振って、彼方に行けという合図をした。捕虜はその方を向き、スーラーブの側を通って陣の奥へと歩き出した。カタ、カタ、木の足枷が鳴った。スーラーブが、高地の端でこんな時を費していたうちに、陣の後方では、着々、戦端を開く準備が進められた。大天幕を、足早に多くの兵が出入し、伝令が、隊から隊の間を駛《はし》った。亢奮した空気が、ツランの陣中にざわめき
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