っと南側を大廻りせず、そこから真直にイランの陣に向って降り始めた。四辺目の届く範囲に哨兵はいなかった。彼はもう、一歩も無駄足はしたくない心の状態にあったのだ。
 ルスタムは、体を反らせて平均を保ち高地の半分以上降りきった。時々蹴落された礫が砂まじりの泥と一緒に弾んでゆき、下の方で微かな音を立てた。もう夜は黎明に向ったと見え、高地の中腹から見晴らす広い空の紺黒い色も星の輝きもほのかな軟かみを湛えて来た。
 丁度彼がもう少しで高地を降り切ろうとする時であった。不意に一つの黒い影が、彼の横手から現われた。影は、ルスタムを認めると、ぎょっとしたように止った。ルスタムも思わず足を停めた。が、彼は、相当の距離が二人の間に在るのを知ると、またずんずん前進し始めた。影は、草をさわさわ、わけ進んで来た。白い纏布が互に見えるところへ来ると、先方から、一声、何かツラン語で云いかけた。まだほんの少年の音声である。ルスタムは如何ようにでも解釈される合図の積りで、右手をあげ、声の主に向って一両度ふった。足では矢張り歩きつづけながら。すると先方は、もう一遍先と同じ文句を繰返し、ルスタムの行手を遮るようにして前面に廻った。ルスタムは、それを逸して先に出ようとするのだが、執念《しつこ》く行手にちらついて妨げる。彼は不機嫌に、いかめしくイラン語で云った。
「どけ! 若いくせに命を大切にしろ!」
 然し対手にわかる筈はない。声の持ち主は、最初の暢《のん》びりした態度を失った。狂暴な勇気で一杯になり、命をすててかかり始めたのは、手脚の熱烈な動かしようでわかった。短剣の閃きが、ルスタムの暗い瞳に光った。――彼は、仕方なく、隠していた軍用棍棒を右手に持った。そして、さっと四五歩右横に走りかけた。ツラン人はそれにつれ、素早く体を動かしたが、ルスタムが、一足ぐっと踏止るや傍をすりぬけ、一気に高地を降り切ろうとするのを知ると、物をも云わず、武器を振って突かかって来た。短剣の切先がルスタムの外衣に触れるのと、彼の棍棒が真向からツラン人の頭に落ちるのと同時であった。ツラン人はぽろりと短剣を落しよろよろ前へのめりかかると、顔を下にしてぱったり倒れた。拡げた手や脚が痙攣した。ルスタムは、それを瞰下し陰気に肩をゆりあげた。彼は、棍棒を傍の草の中に投すてた。心持は益々滅入り込んだ。彼は、大股に、とっとっ、とっとっと高地を降り、
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