に、幻と思えないまざまざと浮んだ父の姿は、一層はっきり彼の心にやきつき、守本尊となった。この広場の大ごたごたの上にも巨人のような父の姿が、透明な積雲のように、而も溢れる精神に漲って、凝っと自分の計画に注目しているように思うのであった。
 六月の下旬、スーラーブは、予定通りイランに向って出発した。彼の、厚い鉄の胸当の下には圧搾され、やっと縮んでいる限りない希望と、母から借りて来た、あの銀台に土耳古玉をつけた頸飾りが大切に蔵われていた。ターミナはこの菱形の碧い珠に、幾夜かの涙と祈りとをこめて別れを告げるスーラーブの頸にかけた。彼女は、今度の計画が成功すれば、必ずルスタムとスーラーブの名に於て、迎えを寄来す。使が、再びその頸飾を白檀のはこに入れて持って来れば、信じてその者に案内を任せるようにと云う、スーラーブの言葉を唯一の希望に老いたシャラフシャーと、人気のない城を守ることになったのである。
 スーラーブの軍は、十日目の日沈頃アフラシャブ領とサアンガン領との境を区切る険阻な巖山の麓で、バーマンに率いられ、一日前に先着していたツラン勢と落ち合った。

        二十一

 六七月は、ツラン、北方イラン地方で、最も気候のよい時である。毎日、空は瑠璃のように燿く晴天つづきで、野原や森林は、瑞々しい初夏の若葉で、戦ぎ立っている。夜は、星が降るように煌いた。春の雪解でたまった手の切れるような水が、山奥の細い谿流にまで漲り渡って、野生の種々な花の蜜とともにどんなに貪婪《どんらん》な喉を潤しても尚、余りあるほどだ。夥しい兵と、数百の乗馬、荷驢馬の長いうねうねした列は、彼方此方で夜営のかがりを燃き、平和に、寧ろ巡礼旅行者のように進行した、イランの国境に迫る迄、多くの者は、甲冑さえ正式にはつけなかった。
 この季節は、夜が非常に短いので、予定より早く二十五日目に、今迄ずっと登りであった山路が、次第にイラン内地に向って下り坂になって来た。戦いに向うにしては、余り言のなさすぎる長道中に稍倦怠を感じ出した者共は、いよいよ明日、イランに入ると聞いて、俄に勢い立った。そして、その夜は、早めに天幕を張り、大きな焚火の囲りで、武装を調えた。便利のため、巻いて荷馬の背につまれていた旗が、堂々と旗竿につけられた。
 スーラーブ始め、主だった将卒は各々位置に応じた盛装をした。フーマン、バーマンの経験によ
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