ころのない優しい感情ののこりと、説明の必要を知る実際的な意識とが、ひくひくする小虫のように、彼の心で動いた。彼の色の変った唇に、微笑の引つれが、見わけのつかない表情が浮んだ。彼は、ゆるゆる囁いた。
「スーラーブ……ターミナ、サアンガンのターミナは母だ」
 俄に、ぱっと生命の最後の滴りが輝くように、スーラーブは、熱烈に云いつづけた。
「ああ、今死ぬものか? 死んでなるものか。行って云え、早く云え! ルスタムの息子が、父をたずねて来たのだと」
 ルスタムの躯は木の葉のように顫え出した。彼の顔は、死んで行くスーラーブの顔より蒼くなった。彼は、呻き、両手を天に投あげると、涙を流してスーラーブの頭を抱きかかえた。何と云おうにも言葉が出なかった。彼は、自分の運が、想像出来る最も惨虐な一幕の上を、静かに自若と通りすぎるのを感じた。これはあり得ないことだ。信じ難い凶悪な偶然だ。而も事実で、自分の殺した息子の頭を抱えて泣く憐れな愚な父は、この父、ルスタム以外の何者でもない。然し、何のために自分の息子は、こんな危険極まる機会を作って自分に会おうとしたのか。あの突拍子もなく思った虫の知らせに、何故もう少し信じ得る証がなかったか。今朝の、大らかな晴々した五色の虹の光彩が最も厭うべき薄情な明るさで心の裡に半円を描いた。ルスタムは、震える手でスーラーブの頭を膝に抱きあげ、顔を視守ったまま、大きな声で、
「ギーウ! ギーウ!」
と叫んだ。ギーウはすぐそこにいた。ギーウばかりではない。ツランとイランの全軍がついそこにいた。スーラーブの刺されたのを認めた両軍は、一方は悲傷の黒い波のように、一方は勝利の旗のように、中央めがけて突進して来た。が、突然、思いがけないルスタムの挙動が彼等の歩調をのろくさせ、やがて全く停止させた。彼等、数名の眼が、二人の戦士を遠巻きにし、戦いを忘れ、畏怖に打たれてじっと一点に注がれているのだ。ギーウは、のぞき込んで二人を見較べた。
「何事だ?」
 ルスタムは、訴えるように、汗と涙でよごれきった顔をあげた。
「見てくれ。最後の手柄に息子を殺した。――信じられないことが事実になった。すぐ王の処へ行って、血止薬を貰って来てくれ。チンディーの名薬がある筈だ。簡単に、速く!」
 ギーウが戻る迄、ルスタムは、傍の者を恐れさせた程真剣な、つきつめた一心に夢中になった様子でスーラーブの傷に手
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