恐怖に掴まれた。彼は、さっと蒼白くなった顔の中で、二つの光の失せた眼を瞠り、訝るように、傍に立っている、天につかえそうな背高い戦士を見上げた。急に、頭の中に前後の関係がはっきり写った。スーラーブは、絶望して唸った。
「自分は刺された。死ぬ。ああ、ああ、血が流れる。父に会わずに殺されたか。何もかも駄目だ」
 世界じゅうが、鈍い色の不愉快な塊になってずんずん彼方へ後じさって行くように感じた。非常に孤りぽっちという寂しさがスーラーブを苦しめた。心も体も大きな波のうねりにのって漂っているようだ。時々何かにぶつかるように疼《いた》みが彼の意識をはっきりさせたスーラーブは、大切な云うべきことがあるのを感じ、当もなく起き上ろうとしながら、
「ルスタム……ルスタム!」
と嗄がれた声で呼んだ。
 傍に立ち、義務を果した安心の後、沈んだ気持で瀕死の若者を瞰下していたルスタムは、どきりとして一歩足を踏み出した。同時にもう二度と若者が立てないほど、自分が刺したのだという意識が、罪のように厳かな感じを伴って彼の頭に閃いた。ルスタムは注意深くこごみかかって云った。
「ルスタムがどうした?」
 きのうも一昨日も、いざという時になると、この若者が自分の名を口にした記憶が、新な戦慄をルスタムに与えた。
「ああ、ああ……」
 若者は、涙の乾いた悲しい声を号泣するように永く引張って、体を動かした。熱い砂上に吸われて行く血の匂いが、ルスタムの鼻を刺した。彼れは、一層顔を近づけて訊きかえした。
「ルスタムがどうしたというのだ」
 若者は、ぼんやり開けて天の青空を映していた瞳をぐるりと動かし、犬のような罪のない、遠くを見る眼差でルスタムを見た。
「ああ。――ルスタム」
 若者は喘いで、むせた。
「ルスタムが、儂の讐を討ってくれる。イランのルスタムは――白い馬に――ああ会ったら云え……ルスタムはわが父だ。ここに、ここに、……」
 ルスタムは、倍にもなったように眼を見開き息をつめて起き上った。地面と輝く天とがぐらぐら目先で揺れて一緒くたになった。
 彼は、急に何処かを打たれたように、若者の上におっかぶさり、熱心に、早口にきいた。
「卿の名を云え。母は? 父は? 確りしろ。名は何というのだ」

        五十一

 スーラーブは、微かに、然し明瞭に「母は? 父は?」と自分の傍で呼んでいる声をききわけた。捕えど
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