も道傍からどけようとするような単純な熱中に駆られた。
けれども彼が押しても引っぱっても、イランの老戦士は根でも生えたように動じない。焦立つな、焦立つな、という警告は、スーラーブの心の一方で絶えず繰返されている。彼ははっきりその必要を知っているのだが、対手が余り平然としていると、憤怒が湧き、我にもなく四肢をいきませてしまうのだ。
スーラーブは、この勝負が、まるで、腕の争いより、一種心の組み打ちになったのを感じた。そう気がつくと、不意と冷静な気分が還って来た。スーラーブは、さりげなく素直に手脚の力を緩めた。それにつれ、対手もほんの僅か隙を作った。とっさに、スーラーブはそこにつけ入って腰をひねった。足がらみが利き、対手はきれいに倒れた。が、イランの戦士は、執念深く、彼の腕を掴んで離さない。スーラーブは、片手を引っぱられ、駆けるようにのめって、どっさり対手の上にかぶさってしまった。スーラーブは、はっきり自分の危険を感じた。彼は渾身の力を搾って、下になった敵の抱擁から体を引離そうとした。彼は、めちゃめちゃに脚で地面を蹴り、対手を蹴り、組合ったまま、ごろりごろりと転がった。
ルスタムももう必死であった。彼は機会が二度と自分に来ないのを直覚した。今、この若者を放せば、彼の命が危い。猶予してはいられない。ルスタムは、両脚でしっかり対手に絡みつき逃れないように片手で喉を掴みながら、空いた片手を自分の腰に廻した。
五十
スーラーブがちょっとでも対手の顔から注意を他に向けられれば、下にいる敵の手が何に触ったか、容易に感じられただろう。そこは、ルスタムの老練に及ばなかった。ルスタムはそれをさけるため、鋭い、集注した眼でぐっと対手の心を自分の顔にあつめさせ、喉を攻撃して、自分の手を留守にさせたのであった。これ等の思慮は、恐ろしいほど明晰にルスタムの心で配られた。彼は蛇のようにそろりと短剣の柄を握った。そして鞘をぬくや否や、物を云わせず、下から対手の脇腹深く突刺した。
スーラーブは、何ともいえぬ悲しげな呻きを洩した。彼は、言葉にいえない苦痛と一緒に、どっさり体が高い処から落ちたのを感じた。落ちるのをふせごうとして手をばたばたやった。劇しい刳《えぐ》る痛みが起り、眼が重く、見るものが見えないようになって来た。
スーラーブは、瞬間、自分はどうなったのか見当のつかない
前へ
次へ
全72ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング