逸《はや》る年頃のあの若者が、今一息という際で、自分の命を許したのだろう。
四十六
「許す! 許す!」
苦々しげに、白髭をしごき、ルスタムは頭の裡で呟いた。「実に、恥辱極まることだ」
彼が人目をさけて天幕に戻り、ギーウを拒んだのも、自分が慈悲を受けたのを目撃した、その眼を見るに堪えなかったからなのだが、思えば思うほど、彼に若者の心持は不可解であった。何のために彼はあんなに皮肉な念を押したのか。
「ルスタムでは、ないのだろうな[#「ないのだろうな」に傍点]」
それを思うと、ルスタムは、全身が焔をはくような気がした。あの無念さ。飛びついて煙を吐く火花とならずに、しめっぽい涙が出たのは寧ろ不思議な位だ。
然し、何故、あの若者は、あの好機をはずしたろう。何が躊躇させたか。ルスタムは、知らないうちに腰架を立上り、天幕の円錐形の屋根の下を、彼方此方に歩き出した。
そして、一つの考えを追った。ごく表面的にとれば、ちょっとしたはずみであったらしくも見えるそのことの裡には、ルスタムの心を牽いてはなさないものがあった。
フェルトの長靴は、地に跫音を立てない。背後に両手を組合せ、歩き廻っているうちに、ルスタムの顔に、だんだん違った表情が現れて来た。彼は、時々、一二間先の地面に落している視線をあげては、何者かを求めるように、自分の囲りを見廻した。彼の心には、苦しい、悩ましい空想が蘇って来た。若しや、万一、あの若者は、自分の虫が知らせた通り、自分の未だ見ぬ自分の息子なのではないのか。血が血を牽く微妙な働きで、あの戦場のならわしにはないことが起ったのではあるまいかという思いが、こびりついて、彼の心で蠢き出したのであった。
さんざん歩き廻った末、ルスタムは心の動揺に堪えない風で、天幕の一隅に跪いた。そこには一つの櫃《ひつ》があった。彼はその蓋をあけ、中から皮袋をとり出した。
櫃を元のようにすると、ルスタムは袋を持って、ほぼ天幕の中央に胡坐をかいた。考えに沈みきった面持で、彼は袋の口を解いた。そして三寸ばかりの白檀の数片と、燧石《ひうちいし》とを出し、大きな指先で丁寧にその白檀の小片を、小さな尖塔形につみあげた。彼は燧石をすって、それに火を点じた。木片の端にちろちろした火は次第に熱と耀きとを増し、夜の空気の中に高い芳しい白檀の薫香を撒き始めた。
ルスタムは、目
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